文学関連、芥川賞
幽玄の世界に彷徨い出る。物語は夢の断片を追うような気配。 覚醒時にも、過去を回想するときに伴う、映像と意味の不明瞭さがあるのとよく似ている。いずれも、映像に「色」はなく、情感のインパクトが強く残り、そのエネルギーが現実よりもより強力に残って…
●「芥川賞作品全集第十巻」には以下の作品が掲載されている。「鶸(ひわ)」三木卓、69回、昭和48年上半期 「月山」森敦、70回、昭和48年下半期 「草のつるぎ」野呂邦暢 70回、昭和48年下半期 「土の器」阪田寛夫 72回、昭和49年下半期 「あ…
マイノリティな私の感性からすると、いわゆるストレート達の夫婦というのは「このようなもの」ではないかと思うのである。このようなものとは言ってみれば決して人が羨むような夫婦生活、世間のいう典型的でおきまりの結婚後の男と女の仲、餅に描いた教条的…
「芥川賞受賞作品を読む」というブログを立ち上げて、もうすぐ一年になる。弁解するつもりはもうとうないことだが、状況くらいはここにメモしておきたい。 芥川賞受賞作品は、今年の作品でおおよそ150作品くらいになるので作品数からいえばそれほど多くはな…
「女性」という存在は、もうそれだけで、そのまま「マイノリティ」という特殊存在になってしまうようで、芥川賞受賞の女性作家どれを読んでも、これまでのところ、どこかそのままの実態が描かれていても、実に個人的不満が鬱積しているような気配はどの作品…
芥川賞受賞作品としては珍しく、初の「ゲイ」の登場の作品である。メディア的表現の世界では、おそらく芥川賞始まって以来、小説という作品化の世界で主流として描かれた、そのすぐ傍で何やら正体不明の影の存在はずっとあり、それはその作家の主体性の主張…
「国家」という概念が強固に定着して久しいが、中国という国家にしてみればこのような小説は傍迷惑な話である。勝手に占領し我がもの顔で自国にしておいて、それをわが故郷とされ懐かしがられたのではたまったものではないということになるのだろうか。今現…
第六十一回芥川賞受賞作品「深い河」(田久保英夫)、昭和44年上半期。 第六十二回芥川賞受賞作品「アカシアの大連」(清岡卓行)、昭和44年下半期。 第六十三回芥川賞受賞作品「プレオー8の夜明け」(古山高麗雄)、昭和45年上半期。 第六十三回芥川賞受賞…
芥川賞作品の最近の若い作者の「文体」傾向の特徴は幾つかある。それは、小説表現が目指した「言文一致」が過去の作家の表現と比べて高度に進んでいること。限りなく「私」の感情感覚に密に接近していること。従って、モチーフやテーマを思考するとき、深く…
もう何度も芥川賞最終選考5、6編の候補に挙がって、年齢やら文体やらが毎回ぴったりせず、中途半端なまま落とされ、この人はもう自分の世界を持っているから芥川賞候補でもあるまい、などと評され、ずるずると今回まで受賞を逃してきたのが、丸谷才一であ…
「時間」という概念は不思議なものである。その概念は人間固有のものではないかと思うこともある。時がカウントされ始めると、それはどこか「進行」するイメージがあるが、実は、その先へ進む感覚は宇宙時間などとは違うのではないかと思わせられる。それは…
これまで、芥川賞作品ばかり58作読んできて、日本語もなんと多数の表現が可能な言語だろうと思わせられてきた。グローバルな英語に匹敵するほど、一地域の少数言語の仲間なのにである。 柏原兵三の「徳山道助の帰郷」という作品もそういう言語表現のうちの…
この作品を読みながらずっと感じ続けたことがある。それは、大抵の読者が、読みのどこから来るのか漠然と感じさせられつつも明確には掴めない、ある選別的な余韻、多少気取ったと言おうか、取り澄ましたとでもいうべきか、小説語りの独特な調子と言おうか、…
芥川賞も50回を超えると開設以来30年近く経過することになる。石川達三などは、この賞を一回目で受賞し、後に選考委員となり、この段階でもまだ続けているのでデビューからずっと芥川賞まみれである。それに比べると、川端康成などは一回目からの選考委員で…
第五十回芥川賞作品は、田辺聖子の「感傷旅行」である。時代は昭和三十八年、彼女が35歳のときの作品である。大阪勢である。表現世界に大阪勢というか、関西風というか、そういった一味違う作風や姿勢が存在するようである。彼女も含めて12名で同人誌「…
第四十九回で後藤と同時受賞した河野多恵子の「蟹」に触れておく。 現在でこそ、河野は「小説の秘密をめぐる12章」などという、小説表現技法のような、評論のような作品で、すっかり作家然として、「新人の作品を読むときは緊張するが、年季の入った作家の…
名前だけを知っていて、それが、世間的評判の一人歩きで勝手な作家像を作り上げているといった作家がわたしの中で時たま存在している。宇野鴻一郎もその一人であった。たまたま、この企画で、唯一受賞作に接することができたというわけだ。だから作者と作品…
小説を読んでいると、毎回異なるさまざまな人間の生き様に出会う。芥川賞小説の場合もそうであるが、読後感が、世間知的納得に流されない味わいがあるのが、ほかの賞の作品と違っているところであろう。同じ人生に見えてしまうものも、作者によって、その同…
医学部出身というのは、なぜかとても好奇心が旺盛なようで、あれこれと書いて見たくなるものらしい(笑)。 第四十二回の芥川賞は、受賞作なしであった。候補には川上宗薫やなだいなだ等が挙がっているが、見送ったようである。このところ、一つ飛びの受賞が…
みなさま、斯波四郎(しばしろう)という作家をご存知でしたでしょうか? 第四十回は受賞作なし。昭和三十四年(1959年)上半期の四十一回目。わたし事で恐縮だが、その頃のわたしは、14歳で、外を知らない井の中の蛙であった。そのくせ、村落共同体の…
第三十九回は、大江健三郎の「飼育」である。 大江健三郎の小説を読むとき、常に驚かされることは、単語、文節、文章という枠が、緻密に意識的に、その配列までが計算され尽くしたような選択行為の結果であり、成果だということが強く窺われることである。作…
この後、大江健三郎の「飼育」が受賞することになるのだが、それによって、この時代、この開高と大江は流行作家の双璧となる。すでに、大江は開高受賞のおりに、候補作として「死者の奢り」が上がっているが、「裸の王様」に敗れている。開高28歳、大江25歳…
短編で、こういう題材を描くには、もったいない、あるいは軽さに傾斜する危険性がある。それほどさように、この小説は様々な「死」的示唆を提供している。石原慎太郎の「太陽の季節」が出ても、戦争の傷跡は、いついかなるときにでもその顔を覗かすのである。…
第三十五回の芥川賞は、「海人舟」(近藤啓太郎)である。このタイトルは「あまぶね」と読ませるらしいが、わたしは、「うみ、人、ふね」と読みたい。そうするとこの小説全体を統一するように思えるからである。この作家もわたしには始めての人である。 三島…
第三十四回芥川賞は、石原慎太郎の「太陽の季節」である。この受賞は、敗戦後からやっと十年たった、昭和三十年である。作者が学生の時、23歳、処女作「灰色の教室」から二作目の作品であった。これまでにあった「敗戦気分」はまったく無いのが特徴である。…
安岡章太郎の後、現在知名度の高い作家が立て続けに登場する。吉行淳之助、小島信夫、庄野潤三、遠藤周作、石原慎太郎、開高健、大江健三郎である。読みも自然と休みなく、大江健三郎まで進んでしまったが、これらの作品は芥川賞の場合、短編か中篇なのです…
朝鮮半島の国は、今の日本にとって近くて遠い国などといわれている。それはおかしい。戦後61年も経ったからであろうか。かってその国を占領して、その民族性にも深く入り込み日本色統治をしたような日本が遠い国などとは決していえぬのは当然で、この言い…
昭和二十七年、第二十七回の芥川賞は受賞作なしであった。吉行淳之介や安岡章太郎、小島信夫などが見え隠れするが、受賞には至らないようだ。不思議に思うのだが、三島由紀夫、わたしはこの作家をずっと意識しているのだが、芥川賞選者の目に触れないのであ…
安部公房の文体と小説の関係はおいおい語っていくことにして、次の受賞作品を読んでいく。 わたしには、あまり馴染みのなかった作家、堀田善衛である。しかし今回、彼の受賞作、「広場の孤独」、「漢奸」を読んで気がついた事は、芥川賞にはこれまでなかった…
第二十五回の芥川賞は二作であった。「春の草」(石川利光)と「壁」(阿部公房)である。「春の草」が、従来の芥川色である、伝統と堅実を受け継いだ作風の作品で、新しい小説を模索するもう一方のこの賞の目的も適う「妙な」作風の「壁」とである。 敗戦後…