●第四十五回はなく、四十六回の受賞は「鯨神(くじらがみ)」(宇能鴻一郎)

 名前だけを知っていて、それが、世間的評判の一人歩きで勝手な作家像を作り上げているといった作家がわたしの中で時たま存在している。宇野鴻一郎もその一人であった。たまたま、この企画で、唯一受賞作に接することができたというわけだ。だから作者と作品全体を知る作家ではない。この作品だけからすれば、意外に掘り出し物かも知れないと思わされた。時代設定が曖昧だが、それは、冒頭がちょっと複雑だからだ。語り手が泊まった宿(これは現代)に、鯨の絵巻物があって、その絵巻物の由来が宿の主人から説明され、語り手は、その絵から物語を、中味の濃い語り手なりの物語に再現するという手法である。その物語は、この地方(九州長崎浦戸あたりか?)の語り草となっている鯨と鯨採りの死闘の物語なのであった。時代は明治のころのはなしであるらしい。それを語り手が小説として肉付けした。この経緯が小説の冒頭で説明されて、導入にちょっと手間がかかる。それ以降は、もう一気に、その時代の、鯨神と命名された、この一匹の鯨を倒すための、代々の人間の物語となる。鯨採りを生業にした漁村の、この一匹を倒すだけに命をかけた、青年の、その戦いざまが描かれるのである。これも、自然との闘いの、冒険譚のひとつである。その漁村の住民のほとんどは、クリスチャンであるというところが、和歌山、三重に伝わる鯨採りの世界とは異なっている。今では、長崎が、鯨の本場というのさえ誰もしらない。この作品は、鯨漁が、単に生活だけの問題ではなく、いかに鯨と日本人が日本民族的な業であったかを問う作品ではなかろうか。その鯨神と呼ばれる鯨が現れたときには、それを倒す人間は、運命的に代々決められているようで、その運命を担わされた人間は、死を問わなければならない。しかも、もし彼が敗れ去った場合、次に倒す人間を血族的に用意しておかなければならない問題もあり、ここで結婚の問題も生まれてくる。一生の問題として、鯨神に向かう者は覚悟しなければならないのである。旅館に掲げられている絵巻物は、実はそういう意味の絵だったのである。その頃といえばまだキャッチャーボートというような文明の利器も発達していず、何艘もの小船で、網と槍で戦うのだから大変なものである。常に何人もの犠牲者が出るのを覚悟の上で鯨採りをしていたのである。そのクライマックスまでを語り手は語っていき、最後が、その絵巻物の絵のように、何人もの人間が、鯨神にへばりついて翻弄される話となっていくのである。その鯨神一頭だけは、毎年死なないで生き延びる。それが最終的に、打ち倒される物語なのである。この作品だけからすれば、これはエンタテイメントに見える冒険作品だ。しかし、ここでは、それと戦う人間の「死」の意味が問われている。生活だけで、鯨を採っているのではなく、そのためには死の意味も問わなければならないというのが、この小説のミソである。ミソとは脳である。脳とはニューロンという物質である。その束を、大脳皮質という表面の細胞に配置された人間という生物の、この皮質が掌る、意識や言語や自我を掌る話しなのだが、もちろん、作者はそんなことは意識してはいない。ただ、もうそうするのが条件反射のごとく、したがって「生きる」というような問題も、従来の表現で終わっているが、それが、この表現の玄人直感に頼った作風なのである。構造からすれば、その描写は、かなりのノンフィクションなのだが、ここにもしも、進化論的な視線や、環境ホルモン的な要素をサイエンスの視点で描写したら、その「死」の方向へももう一歩逸脱できるかもしれない。作者にその意思はないようだが。そんなことを考えさせられた、五十六回目の作品でした。