”abさんご”読後感

 幽玄の世界に彷徨い出る。物語は夢の断片を追うような気配。
覚醒時にも、過去を回想するときに伴う、映像と意味の不明瞭さがあるのとよく似ている。いずれも、映像に「色」はなく、情感のインパクトが強く残り、そのエネルギーが現実よりもより強力に残って感情を突き動かす。かすかな動きを伴ってはいるようだが、運動の自然な流れはなく、飛び飛びに動作するが、整合性だけはある。これは「夢」の持つ体験的な作用である。目覚めたあと、インパクトな情感が強く残っていて、その意味と因果関係を検証してみるがしだいにそれは色あせていく。褪せていくのが早い。現実的になればなるほど、夢の中の因果は荒唐無稽の評価を与えられてしまう。

 過去の回想を寝る前に横になって、よくするようになった。年をとってからするその行為は若かった頃にしていたのとはだいぶ違ってきているように思う。若い頃のは、なんだか肉感的であり、色彩的であったような気がするが、今は色彩がまったく排除されている気がする。因果もほとんど問題にしなくなった。浮かんでくるものを素直にそのまま受け取るようにして回想するから、なんだか「すかすかのさんご」のような形式だ。繋がってはいるのだろうけどその連結の因果律が明確でない。断片的な絵がならんでうごめいているように見える。この頭に蓄積されている絵や映像や言葉の断片はいったいなんだろう。人間はなんでこのようになるのだろう。これはほんとうに蓄積といえるものなのだろうか。頭はなぜこういう構造をもっているのだろうか?私は、このなぜをよく欲望するタイプだが、この作者はそうではないらしい。ただ、表出した映像をそのままつなぎ合わせているだけだ。こんな回想が何のために生じるのかなどは問わず、陳列する。まるで、ボケるまえの下準備でもあるかのような動物的しぐさのように、これを認める。

 「abさんご」という作品は、以上の読後感を与えるために、作品の構成に構造主義的な努力をしている。
相当な技術力でもって幽玄やはかなさや情感の強弱を出そうとしている。まるで、フォルマリストの「異化」効果を狙っているかのようだ。読んでみればわかると思うがまずセンテンスを追って得られるものは、単語の単純な意味が明確にではなく、ややもすれば、読んだすぐから記憶にとどまらずに消え入って、忘却していく作用がある。意味がのこらないから、ただ言葉の音を追っているだけというようなさまになる。実はこれがくせものなのだ。このような読後感が生まれるには普通の文体では難しいだろうからだ。リアリズム描写が常套となっている、現代小説文では、儚さや夢や白黒の映像の回想を表現しようと思えば、用語集のオンパレードとなるからだ。