abさんご、難解さを解くヒント

今回、第148回芥川賞の受賞作品は、直木賞受賞者と読み比べてみるとおもしろいかもしれない。なにしろ、最年長(75)と最年少(23)の受賞だからである。また、作品も対照的である。
それはさておき、黒田夏子氏の作品を読むまえに、プロフィールで想像したことは、「年齢」、「早稲田文学」等のキーワードである。
いわゆる、あの「純文学」という言葉が久々に当てはまるのか、作品の構造理論が意識的か、それゆえ、現代の若い読者には難解のはず、ということなどが思い浮かんだ。 それは、かなり当たっていた。まだ文学が存在していたのだ。 各選評者のコメントからも、それが伺える。典型的なのが、村上龍のコメント。推薦しなかったが、優れた作品だ、というとまどいのような奇妙な選評である。村上氏の作品は、この対極にあるような作品で(芥川賞受賞作は違っていたが)、誰が読んでも苦労なく理解され楽しめる作品を多く世に出しているからである。

一般的な読者は、こういうタイプの本、いわゆる「純文学」というやつ、にどう向かえばいいのだろうか?
はたして、正直に楽しめるだろうか?小説を読むという行為をして、読者はいいたい何を得たいのだろうか?こういう作品にむかった場合特に知りたいのはそこである。今週の売り上げランキングで、この作品は鳥取県では2位にランクいんしているが、東京では10位内にも入っていない(新聞調べ)のはいったい何故なのだろう?山陰の読者はなぜこれを読もうとしたのだろうか?読み始めてどうおもったのだろうか?単に有難がっているだけでは?
この本から得られる感触は、現代の大部分の読者にとっては”読書の苦しみ”といったほうが良い。「異化」の穴にはまりこんで難儀すること請け合いなのである。古典的読書の回帰、先祖帰りである。大江風マゾヒズムの読書術が必要になるし、フォルマリン漬けにでもならない限り、到底乗り越えられないだろう。秋の夜長の終わらない夢想の中に沈み込での読書ならまだしも、こんな寒い季節によくも受賞してくれました。
 しかし、楽に、楽しめて、理解に至る方法がないわけではない。あるのだ、音読である。それも自分で音読しない。音声化のうまい人に声に出して読んでもらうのである。この間、NHKラジオで、作者訪問のアナがチラッと音読してわかったのだ。耳で聴くと、それは、シンフォニーを聞くのと同じになる。理解は、単語ことばの連なりだから、その単語と接続詞等の指示する意味に身をゆだねて解釈してゆけばよい。音読ソフトに読ませても良いだろう。黙読しても、結果、自分の音声に頼ることによっての解釈となってしまうだろう。固有名詞などはないから、浮かび上がる絵は読者のものになってくる。そこが作者の手なのだろうか?わたしのような年寄りの思索では、あの世の漠然とした空想画にでもなってしまいそうである。
 それでもお、わたしは尚次のように思う。 
 やはりこの年齢で同人誌所属となれば、その狭い世界で戦わされる文学、小説というものが、超難解理論を意識するという背景を背負わされていて、あの文学世界が死滅しないで存続を保っていたという、なぜかほっとする感慨だ。小説の実作者が、書きながら、小説とはそんなものではないと、ぶつぶつ禁忌してきて、なんだか、誰にも読める小説を目標に、衆遇読者におもねりつつ、なにも考えさせてくれない情感だらけの小説群を生産し続け、こんな難解な小説はすっかり隅に追いやるか、死滅させたと思っていたものだから驚いてしまったのだ。
この作品は、読者を選択してしまう。いや、文学は読者を選んでしまう運命にある。華道や茶道と同じだ。
だから誰でも読んで楽しいというわけではない。文学がまた、復活したのだ。皮肉にも高齢者によって。