文学関連、文芸時評
今回、第148回芥川賞の受賞作品は、直木賞受賞者と読み比べてみるとおもしろいかもしれない。なにしろ、最年長(75)と最年少(23)の受賞だからである。また、作品も対照的である。 それはさておき、黒田夏子氏の作品を読むまえに、プロフィールで想…
文芸批評家東浩紀の実験的作品「キャラクターズ、東浩紀+桜坂洋」を評論する、非常にメタ批評な作品が今回の群像新人文学賞批評部門で同世代の武田将明「囲われない批評」が入賞したが、この作品はおもしろいことに、東が自ら小説を書いて、その真髄を純文…
「ファントム、クォントム、序章」を読んでいると、またしても「新潮」10月号で別の東の小説を発見した。いかに私から「新潮」が遠く離れていたかということだ。おそらくこの奇妙なタイトルの実名小説が、「ファントム・・・」の動機になっている小説なのだ…
小説内容がつかみやすいように、序章の構造を記しておく。語り手らしき一人称形式で二人の人物、「ぼく」と「わたし」が語る。全体は5節にわかれていてそんなに長くはない。「ぼく」は一節にのみ、あとの節は全部「わたし(女性)」で、読み進めるうちに「…
毎月大手出版社の5大文芸誌「文学界」「すばる」「群像」「新潮」「文芸」には目を通すことにしているのだが、毎回なぜか「新潮」だけはあまり私の関心を引かない雑誌だった。しかし今回、その雑誌にガゼン注目したのには理由がある。東浩紀という名前だ。…
かって、言論界の若き批評家東浩紀は、言論界の誰もが「のたまう」小説の死を、彼はかれなりの言葉でつぎのようにいう「僕にできることは、僕がすばらしいと信じるものが正当に評価される状況を作るべく、言説で多少とも世の中を変えていくことです。僕は、…
もちろん、書く行為、言語による表現行為のことである。言語が示す「行為」のことではありえない。このことは哲学的思弁をできるだけ思弁的心理の流れに沿って言語化を試みるのに似ている。これを敢えてことわるには理由がある。もとより小説に表現形式が存…
それについて、タイ在住の、自らも「言語藝」と称して小説を著し、日大文芸賞を受賞している白石氏から興味あるコメントがなされたので、ここでそのことに触れてみたい。彼のホームページはここです。 彼のいうとおり「純文学」と称する文学的場所は、非常に…
筒井康隆風小説の異世界も、その裏には実際の現実、背景というものがあって、それがパロディのように、様々なレトリックを駆使して「妄想」される文体世界が、いかにその現実、その実態と乖離するか、この笙野の文体にもある。小説が、こうでもして描かれな…
純文学とはなんだろう?という問いの答えがますます曖昧になり、一言で定義させることは容易な技ではなくなった。逆に、解りやすく、辞書のように簡潔に説明すればするほど、すっきりした答えは遠ざかるばかりである。日本近代文学成立いらい、何度も、「純…
久々に中村文則クンが長編を書き下ろした。昨年は、文芸誌掲載の小説を批評家たちと共同で座談風にやっていたが、初期の志である精神の「闇」の「善悪」への追求は健在であった。その更なる掘り起こしの作品である。「最後の命」というタイトルで、「群像」…
いったい、日本だけの現象として、なぜ、「純文学」というような命名がなされるようになったのだろうか。昭和10年開設の芥川賞、直木賞以前に、すでに文学史的にはこの命名があり、それは、日本独自の「私小説」というジャンルが発生源と看做されている。…
1993年の文芸季刊誌「文藝」に一年間連載されたものをひとつにまとめた本「文藝時評」(この本は既に売り切れ)を読んだ。だが、評された作品は80年代のものが中心で、純文学系文芸誌の中の作品が多く時評されている。いわゆる実作者がする文芸評論である。8…
この日のページに追加しておく。「文学部唯野教授」のその後だが、どうしたわけか、案の定というべきか、この作家の特徴であるが、これをきっかけに遊び始めた。なんと、スブテキスト的に、関連的な言説がこの作家から派生させられていた。文芸誌にこの作品…
芥川賞作品の一回目から、六十一回目のこの「赤頭巾ちゃん気をつけて」までは、「このような日本語」で表現された作品はなかった。この作品までは、である。作品そのものを読む限り「このような日本語」を庄司薫は、意識的にかどうかは別にして、過去の65…
いずれ登場するが、2006年「沖で待つ」という作品の芥川賞受賞作家、絲山秋子の新作短編集「エスケイプ/アブセント」を読まれたでしょうか?まだでしたら、ぜひ一読をお勧めします。 大城立裕の「カクテル・パーティ」の二人称文体にしろ、絲山秋子のこの短…
ドイツ中世史が専門で、その研究と共に50年間、日本人である「私とは何か」を究極の命題として常に問い続け、日本と西欧の差異を観るのに「世間」という彼独自の視点を設定して「いかに生きるべきか」を見出した安部謹也氏の最後の総まとめともいうべき書…
全く偶然のことだが、芥川賞第五十四回受賞の「北の河」(高井有一)を感想したばかりだったが、彼のその40年後の作品に一気にお目にかかることになった。全くラッキーな偶然である。「文学界」二月号の冒頭に「鯔(ぼら)の踊り」という新作短編が掲載さ…
映画「ホテル ルワンダ」を観た。公式サイトはここ、(http://www.hotelrwanda.jp/) 1994年、ルワンダで起きた内戦での虐殺を「描いた!」映画である。100日で百万人が虐殺された中で、1200人を外国企業のホテル・ルワンダに匿い困難の末助けた男の実…
長いインターバルが続いています。もう残り少なくなった今年、2006年ももうすぐ終わりです。今日は、休憩中に読んだ、「文豪の書いた探偵小説」の読後感を言説してみたいと思います。 今でこそ「探偵小説」はジャンル化され、固定化され、すっかりエンタ…
「されどわれらが日々」で暫く芥川賞読破の時間を止めております。その間やっていることといえば、ずっと気にかかっている「脳と文学」についての考察で、茂木の考察はずっと文芸寄りでわかりやすいのだが、もうひとつ文学の「表現」の新規な方向が見出せま…
さすが、学者な作家(文学者)の受賞のことばである。誰かって?もちろん、「されどわれらが日々」の柴田翔のことである。作中の主人公である「私」、すなわち「大橋」とそっくりな言説ではないか。そこには、感情的な要素は一つもあらわされていず、徹底し…
柴田翔の「されどわれらが日々」を読み返すと、この頃、正確には、作者とわたしは10年の年の隔たりがあるので、この本を手に抱えて、手当たりしだいのページを捲っては読む、そのどのページもわたしの、その頃の「今」にぴったりフィットした感覚を共有し…
芥川賞作品を読むには、今、文藝春秋社から専用の全集が発売されています。現在までのところ、19巻まで発売されているようです。わたしはこれまで市立図書館のものを利用していたのですが、どうも、他にも読んでいるらしい人がいて、7巻と8巻がなくなってい…
●第四十七回(昭和三十七年)受賞作、「美談の出発」(川村晃)。 ●第四十八回(昭和三十七年、下半期)、受賞作なし。候補作は、「美少女」(河野多恵子)など。 ●第四十九回(昭和三十八年)受賞作、「少年の橋」(後藤紀一)、「蟹」(河野多恵子)。 こ…
毎回、芥川賞作品を読んでいて疑問に思うことがある。最終的に選考委員の手元に上がってくる、五つくらいの作品が、これまでにどんな理由で選ばれているのかもそうだが、この最終段階での選考委員、個人個人の思惑にもよるだろうはずの、この結果がどんな理…
文芸誌「群像」の今月号に、ローランド・ケルツの「なぜ日本文学はアメリカで読まれているのか」という「講演」の翻訳が掲載されていた。これを読む限りにおいては、日本文学は決して悲観的な状態でないのが読み取れる。我々は、内側にいるのでその現状があ…
読む側(鑑賞する側)から、「表現物」というものの全体を、とりわけ芸術作品とよばれているものの全体を、歴史的にも鑑賞法からも、その「真偽」の詮索にかかわって統括的に把握するのが、茂木健一郎の視点だとすれば、それでは創作する側、作る側からもこ…
一言で「小説」と言っても、読者という存在にとってはさまざまで、それを本という形にして自分の生活圏に取り入れてしまうと、もう我侭に、したい放題である。 読者にとって、その本とのつかの間の関係の時間は、その本の造られた「経緯」に対して信頼性、希…
戦後の芥川賞は、権威的になり文藝春秋社という一企業の宣伝媒体となり、金の流れが文学の質を決定するような傾向になってしまった感がある。しかし、まあ、「懸賞」というシステム(もちろん芥川賞と公募賞の違いはあるが)がそのような内部を持っているか…