●真の意味でのサイエンス・フィクションは我々読者をどこへ導くか。

 読む側(鑑賞する側)から、「表現物」というものの全体を、とりわけ芸術作品とよばれているものの全体を、歴史的にも鑑賞法からも、その「真偽」の詮索にかかわって統括的に把握するのが、茂木健一郎の視点だとすれば、それでは創作する側、作る側からもこのような「視点」があって当然なわけだが、目下のところ、文学作品と呼ばれる分野のそれがサイエンス・フィクション(SF)と呼ばれるジャンルに顕著であり、その製作サイドでは常に、物語の真偽のほどは、先端科学の新しい発見とその姿勢に依存して物語創りが進行していた。

 近代的に見て、サイエンス・フィクションと呼ばれるジャンルの萌芽は、一部の科学マニア的な作家がいて、その感性のもとで、さまざまな作品を提供していた、それが稲垣足穂などの作品に顕れている。その他の作品にだって、実は科学的真実といったようなものに依存した作品は、近代小説といわれるくらいだから、文明依存的表現はジャンルを問わずあるわけだ。実は、宮沢賢治の空想は、そういう意味でもSFの奔りといえなくもない。ジャンルが先鋭化してくると、ホラー大賞などにも、突如として、SF的な作品が現れたりする。「パラサイト・イブ」(瀬名秀明)などは、これを読んだ当初、わたしは、どのようにその表現行為が進んでいくのだろうと思っていたが、案の定、単なるエンタテイメントでは終わらなくなった。20世紀の終わりに彼は「BRAIN VALLEY」を発表したが、いつもなら、この「作品」だけで、「真意」の意味を問う常套手段で終わるはずだったが、どういうわけか、その科学的証明が必要だと考え、そのSF小説の、先端科学的実証を解説するこの小説の参考書、「神に迫るサイエンス」を出してしまった。いってみれば、製作サイドの「裏側」を見せようとしているのである。このジャンルのこれまでなら、「作品」自体の完成度で勝負するのだが、このジャンルのマニアが、あれこれ真偽にうるさいものだから、こういう手法をとるようになったのである。このサイトでも、SFの表現の真偽が議論されていたが、そういう表現の詮索の結果、結局どこへ作品が読者を導くかといえば、これ単に、おもしろかったというエンタメで終わらせないものがある。結局、われわれは、日常的に漠然と「なぜ?」を黙問しているその答えを導く方向へ向かわせているのである。これも、世間知的解答を暗黙のうちに拒否する何かの表れである。SFは、作品化するのに、科学的事実をそのまま提示するわけにはいかない。それを支えているのが、旧来のジャンルであるファンタジーの要素で、これを加味しなければ物語にならないのである。このあたりになると、これはもうメビウスの尻尾切りのような状態になる。瀬名秀明の作品を読書する行為は、結局どのようなところへいってしまうのだろうか?結局どのジャンルにおいても、究極的には、精神と物質の追求の結果を求める行為になっていくのだろう事は、言えそうである。これまでなら、旧来の文学のように、いわゆる、玄人肌しの、直感、閃きのようなものが、その「真偽」を一瞬のうちに、表現に凝縮させるような、感性表現に頼っていたわけなのだが、この昇華にばかり頼っていては、真偽の一般化、その浸透は、玄人の世界を維持し、そこに入ってくるものだけが解る世界に限定されていた。これでは、文学の裾野は広がらないのである。そう考えると、瀬名の行為は、製作者側からの、この文学の壁を突き破る試みだといえなくもない。「SF」作品のフィクションの部分が、もう少し、従来の、所謂純文学という領域にもっと接近する必要も大いにある。また、純文学の側でも、無意識のうちに依存する、科学的なる倫理観のようなものから現代的に脱して、サイエンスのほうに近づくことも必要であろう。そういう全体を、巨視的に、鑑賞側から試みはじめたのが、茂木健一郎の「クオリア」という概念であろう。これは、今送れてやってきたという気がする。なぜなら、この概念で、彼は、今再び、近代小説という文学史にスポットを当てて問い直そうとしているからである。