●第四十四回は、わたしの評では最悪の「忍ぶ川」(三浦哲郎)

 小説を読んでいると、毎回異なるさまざまな人間の生き様に出会う。芥川賞小説の場合もそうであるが、読後感が、世間知的納得に流されない味わいがあるのが、ほかの賞の作品と違っているところであろう。同じ人生に見えてしまうものも、作者によって、その同じはずのものが、諦念的に流されないということだ。何かしら、どっか次なるステップというか、何らかの可能性というか、どこか異なる境地へ導くのである。だから、どれを読んでも、人生とはこんなものなんだといった共通感覚のようなものは残らない。それが芥川賞作品の特徴だといってもよい。いってみれば、私小説的であると言われる日本的小説の純文学というジャンルの、その芥川賞風とは、描かれた内容、小説のテーマも、作風そのものの斬新さを求めるのと同じく、そういう可能性、新規さを求める作品が選ばれているといってもよい。こういう流れとは、異なった自らの作品世界を持っているのが川端康成だが、選考にはあまり影響はないかに見える。ところが時に、それが功を奏するときがあるようで、それが、第四十四回の三浦哲郎の「忍ぶ川」であろう。わたしにとって、これまでの芥川賞作品の中で、一番おもしろくない作品であった。これぞまさに、世間知謳歌の典型的作品なのだ。まず、このタイトル、通俗的で思わせぶりなこの命名。情緒とか「わびさび」の美とか、そういったイメージを狙っているかのような、このタイトルで、懸念を抱きながら読み進めて、やっぱり、と何度呟いたことか、結局最後まで、どんな抵抗もなく、すんなりと、懸念を認めたままで読み終わってしまった。これは川端康成好みの作風だと思ったから、選評を読んでみると意外にもそれほど強い推薦ではなかったようだが、川端は気づかないのだろうか、テーマは川端好みなのだ。まあ、文体が、多少とも川端よりは荒く、緻密さがないのはわかるのだが。

 遊び心で女を認める書生が志乃という料理屋の娘と会っているうちに、いつしか結婚する話なのだが、いわゆる、その善いとこ取りの描写ばかりが並んでいる小説なのだ。恋愛も惚れた側から描き、それにちょっとでも応える相手の反応があればあらゆる細事は夢物語になる。そんなことはわかっていることだ。その感動の描写たるや、なんとも通常を一歩も出ない描き方なのである。恋愛小説も通俗が性が希少となり、異常で驚愕的なものが一般的に描かれてばかりいたなら、この通俗性は、新規な可能性を生むかもしれないが、たいていの場合、事は逆である。少なくとも、小説という形式の中で表現しようとしているのである。読者と等身大の、その安心感で物語を進めるのであれば、それは、ネット小説や携帯小説の手法で、読者の共感ばかりに阿って読者を引き付けておくのに似ている。そんな類を呼ぶような小説はいらない。この「忍ぶ川」はそんな小説だ。いったいこの結果はどうしたことであろう。ときおり、勝ち狂ったようになる芥川賞の兆候が出たのだろうか。