●芥川賞作品読みのあいまに。

 文芸誌「群像」の今月号に、ローランド・ケルツの「なぜ日本文学はアメリカで読まれているのか」という「講演」の翻訳が掲載されていた。これを読む限りにおいては、日本文学は決して悲観的な状態でないのが読み取れる。我々は、内側にいるのでその現状があまり客観的にはよくわからないのだろうと思う。彼ら(アメリカ人)の側からすれば、翻訳される、日本文学の示唆するものは、すばらしく自由で、限界がなく、あるその壁も難なく飛躍する、大らかさが存在するのだという。彼らの側からすれば、自らの文学には、まだまだ二元論的不自由さが存在し、その壁なかなか破られそうにないのだという。キリスト教という「宗教」がそれを支援し、彼らの特許である科学的自由もその壁を容易には破れないのだという。その理由が、我々の無宗教的、多神教神道の神話に支えられ、しかも、科学も、その実証からほとんどファンタジックに飛躍して、荒唐無稽さが、都市生活というものにささえられて、野放図だからであると解釈する。作家と言われる、製作者もアメリカに比べると、その出身が、いわゆる、文学青年的層からばかりでなく、ミュージシャンや宗教界やら経済界や科学的分野からもいて、その文学的表現に関わる。その結果の典型的な作者が村上春樹であるが、彼は、実際、日本的感性を元としてはいるのだが、彼らにとっての、その「日本的感性」とやらが、もはやすでに、一次、二次、三次と通過した、どこの国ともいえない、メビウス的な輪の、出発点をほとんど世界共通の場所に位置させていて、どっちの国が、日本的だったのかが、あいまいになった状態で受け入れられているという。村上の作品を彼らが容易に受け入れられるというのは、日本製アニメを、もはや日本的という意識なしに受け入れられているからで、もはや、そこに国境はないというわけである。これは、日本人現代作家に心強い知見である。少なくとも、文学の分野では、日本は、西欧から吸収したものや、戦後のアメリカが与えたものの醸成を終えて、それを超えて、返しつつあるというのである。わたしのような、戦後間もない時代に育った人間には、このような評価は驚きであるが、確かに、純粋戦後派の日本人は、そういう意味で対等に、どんなコンプレックスもなくその表現に挑戦できる時代がきたのであろう。すばらしいことである。

 そういう意味で、最も、新しい、芥川賞作家である伊藤たかみくんの「文学界」11月号での受賞談、「純文学とはシンプルを旨とする」という言説も、なにやら、考察抜きに通ってしまいそうな危うさがあるが、それも真実なのかもしれないという気にさせられる(実は中村文則くんなどとは対称的なのだが)。

 わたしは、このローランド氏に聞いてみたいと思うのだが、「純文学」というようなジャンルが、なぜ日本にだけ発生したのか?それらのジャンルの小説を彼らはどう読むのか?それは、どれほどの違和感と共感を生むのか?少なくとも、日本文学全般には、このような下地があって、それが各ジャンルに派生していったのだということを、どう理解するのか?などを、どう辿っているのだろうか?少なくとも、その文学史的なものは、ローランド氏のような日本文学研究者であるならば、無視できない問題のはずなのだが。