●創作の裏側と読書の裏側の共通項。

 毎回、芥川賞作品を読んでいて疑問に思うことがある。最終的に選考委員の手元に上がってくる、五つくらいの作品が、これまでにどんな理由で選ばれているのかもそうだが、この最終段階での選考委員、個人個人の思惑にもよるだろうはずの、この結果がどんな理由で、最終結果を出しているのであろうか。

 もとより、選抜試験のように客観的に点数が出されてきまるわけではない、このような「作品」の選考に、何か、客観的で公平な基準のようなものがないものだろうか。ときどき、そんな思いに駆られるのである。構造主義的、分析批評というものがあるが、それとて問題は多々ある。選考委員の判断といったところで、その判断基準は、その読書と創作の体験に拠るしかないのだろうし、そうなるといかにも、偶然とそのときの気分が作用しているようで、なんだか覚束ない気もする。受賞するまでに、その三回くらい前から、徐々に候補に上がり始める同じ作者のものが、最終選考委員の手にちらほら意識され始めることがある。これとて、その作者の名前を知っている選考委員や知らない選考委員があったりして、まちまちである。こういう選考ではたしてよいのだろうか、選考委員のきぶんと実力とによった議論の末の結果でよいのだろうか。それなら、落ちたほかの作品にも様々な留保をつけなければならない気もする。これらの方法が、もう6六十年以上も続いているというのも、伝統を重んじるなどという話ではなく、なんか奇異な気もしてくるのである。

 エンタテイメント系の、大衆的な小説においては、客観的な判断は、かなり機械的というか、客観的な、データが出揃っていて、すでに作成する段階から、その枠にはめこむようにして、入れ子状で仕上げていくことができ、どんなデータがここで泣かせ、ここで喜ばせ、ここで興奮させなどという形で出来上がっているのは確かで、そういう作品のノウハウ本はたいていそのような仕方を指南する。そういう作者や作品がエンタテイメント系の分野では起きている。それがよいか悪いか、それによって、結構楽しんでいる読者もいるのだから、そこまでは追求しないということになっているが、こういう類の作品の選考なら、客観的判断をするデータを逆に作って、機械的に優劣が判断できる基準ができるであろう。あの、カラオケ採点の機会のようなものである。エンタテイメントの感情移入などというものはそういったものであるが、それによって得た、その涙も喜びも、結局は同じ質のものだ。純文学によって得たものとどこが違うのかという意見もある。

 そういう疑問に挑戦しはじめたのが、茂木健一郎の「クオリア降臨」という文学評論であろう。これは、これまでの評論とは一味もふた味も違う。それは、クオリアという人間の、芸術感受のしかたを、脳科学の知見によって解き、その人間のよるべない感受をより質的に強固にする理論的知見である。いってみれば、このクオリアというのは、選考委員たちが、個々に個性的に持っている、作品の感受のしかたを、個々人の条件によるものとし、その条件の歴史的エネルギーを科学的に解くものである。好み、好き嫌いが発生するメカニズムを解くことから、クオリアの解説はまず始める。そのクオリアこそは、選考によって立つ判断の土台にならねばならないものだという視点から、茂木は解説を始めるのだが、その道のりは、まだまだ遠いようだ。かれは、ピカソの絵の「ゲルニカ」からくる、鑑賞者の判断に「政治的なものだ」と言い切ってしまう人間と、そうは思わず、ただ衝撃を受けたまま、その判断に、何年も費やしてしまう人間がいるのを不思議に思い、その違いはどこから出ているのかを、考察するのである。その解析には、もちろん、総合科学的な知見の重層が必要になる。この知見を選考に取り入れることは必要である。なぜなら、芥川賞選考は、もう六十年以上も、同じ繰り返しをして、結果を出してきたのであるから。