●「精神」と「脳」を一つにする「表現」とは何だろう?

 「されどわれらが日々」で暫く芥川賞読破の時間を止めております。その間やっていることといえば、ずっと気にかかっている「脳と文学」についての考察で、茂木の考察はずっと文芸寄りでわかりやすいのだが、もうひとつ文学の「表現」の新規な方向が見出せません、継続中です。彼の「クオリア」をキーワードにした文学観は、目下のところ根拠が「感性」に傾くところから表現の動機も、その表現法も感覚に頼ったものとなっている。そのどちらも論理的でないものを基点にしているのであって、唯一論理的なのは、これら一切が「脳」という生物学的物質から発生しているというその解明が「論理」的なだけなのである。これではまだ、「文学」との融合まではいかないのである。そうなると、この論理性というのは、文学的には、短に表現のジャンル性のみに依存する。SF的表現か、感性的表現かとに分ければ済むような問題となってしまう。これも充分に示唆的ではあるのだが、今一つである。

 ところで、「危険な脳はこうして作られる」(吉成真由美)にも、文学的示唆のある記述がある。これは、「エンタテイメント」がいかに文学的思考を停止させるかという示唆に富んだ会話である。この会話は、当代トップの、それぞれの分野に特化した頭脳の英才的持ち主の会話であるから実に面白い。登場人物は、野球界の野茂英雄、音楽界の小沢征爾、科学界の利根川進のそうそうたるメンバーである。小沢も利根川も、大の野球ファンで、この集まりは、野茂を中心とした集まりであったのだが、話題が映画「パールハーバー」についての時だった。この映画は、アメリカとの戦いのきっかけになった、日本軍の奇襲が描かれるものだが、この映画がアメリカよりに傾いていて、日本人を悪く扱っていると、小沢が切り出すのである。

 「あれはちょっと問題なんじゃないか。日本側が、随分理不尽に描かれてるんですよね」
 「そうなんですよ。しかも日本版は四ヵ所もカットして、日本人を刺激しないようにしているんだそうです」と利根川
 「あのまま放っといていいんですかね。やっぱり日本政府が、正式に抗議すべきなんじゃないか」
 アメリカというところは、何事においても「フェアーであるかどうか」というのが判断の基準となる。フェアーでないことがあれば、フェアーでない点を明確にしてキチンと議論し、対処すべきなのである。でなければ何事も起こらないし、改善されない。アメリカで生活している面々は、小沢氏の発言に、けだしもっともだと頷く。
 とそれまで黙々と天ぷらを食していた野茂氏が、おもむろに、「いったい何が問題なんですか」とポソリ一言。「あれは単に映画でしょ。エンタテイメントでしょ。誰もあれが事実なんて思ってないですよ」と、すかさず小沢氏、
「あなたはまだ若いから、あまり日本国に対して強い思い入れがないかも知れないけどね・・・」。受けて野茂氏、
「僕の仲間もミニいきましたけど、誰もあれを見て、日本人は悪い奴だなんていう感想を持ってなかったですよ。みんなエンタテイメントとして楽しんだだけです」。
 そこで利根川氏が、
「まあ、大人はまだそれでもいいかも知れないけれど、何の知識もない子供達が見て、日本人を誤解するっていうのは、やっぱり問題なんじゃないか」。
「そうだよねえ」と小沢氏も深く頷く。
 と、一呼吸あって野茂氏、「その為に親がいるんじゃないですか」
 「エ・・・・?」
 「子供が映画を見て誤解するような事があれば、それを直してやるのが親の役目じゃないですか」
 「・・・・」
 「あの映画を見て、皆日本人が悪いと思うかどうかわかんないですよ。人によっては、ゼロ戦が格好イイと憧れるかも知れないし・・・」
 「・・・」
 「それに日本人全員がいい人とは限らない。いい奴もいればいやな奴もいる訳です。アメリカ人だって同じです」
 要するに、「日本人が誤解されているから抗議すべき」と一律に言っても、現実にはイイ人もそうでない人もいるのだから、果たして全体を盲目的にかばう事にどれ程の意義があるのか、というわけである。しかも人命にかかわるような政治問題ならまだしも、エンタテイメントじゃないかと。
 「・・・ウーン」と、全員唸る。
 「なにか、このー、目からウロコっていう感じだね」と小沢氏。もともと野茂氏の大ファンだという前提があるにせよ、全員深く感じいったことには違いない。皆、野茂氏が「何が基本的に重要であるか」ということを明確に把握している点に、感心したのであった。

 この後、それぞれの、この三人の特化した自身のプライオリティについて、この本の作者吉成真由美は、その「脳」について言説していくのであるが、とりあえずはここまでを考えてみる。

 ここで言われていることは「表現」が「エンタテイメント」となったとき、いかに、すべての問題が「現実」から離れて、すべてが「架空」に帰し、それ以上発展するなと、思考を止めてしまうことだ。ここで、思考を促し、発展的に問題化することを、禁忌する態度が生まれる。「エンタテイメント」の感動とはいったい何だろう?歴史は歴史で考察すればよいということであろうか?