●文豪の探偵もの作品、九作を。(余話)

 長いインターバルが続いています。もう残り少なくなった今年、2006年ももうすぐ終わりです。今日は、休憩中に読んだ、「文豪の書いた探偵小説」の読後感を言説してみたいと思います。

 今でこそ「探偵小説」はジャンル化され、固定化され、すっかりエンタ的となっていますが、この形式がポーなどの翻訳で日本にも出回り始めたころ、何でもありの小説が絶えず新規を求めてあれこれ模索の時代の純文学作家たちが、その表現法として取り入れて試みたのが、これらの作品なのである。この現象は、いかにも実験的であるかのように、それらは多少小手先っぽく、ほとんどが短編、掌編である。いま、誰もが小手先っぽく表現する、ショートショートライトノベルの傾向とそっくりなのもおもしろい。これらの作品は、どれも、エンタテイメントの意識などなく、それによって、物語内容に対してあの、エンタメ的思考停止が起きないところが良い。ああ、おもしろかったという気分の高揚が、問題を思考継続させるのである。つまり同じジャンルで、その気分を継続させようとするのではなく、その思考は、異なったジャンルへ向かわせる。解明へのより深い傾向のジャンルは何かを希求させる力が備わっている。

 作品は、「途上」(谷崎潤一郎)、「オカアサン」佐藤春夫)、「外科室」(泉鏡花)、「復習」(三島由紀夫)、「報恩記」(芥川龍之介)、「死体紹介人」(川端康成)、「犯人」(太宰治)、「范の犯罪」(志賀直哉)、「高瀬舟」(森鴎外)の九作である。これらの作品は、編者の山前譲が「探偵小説」として選んでいるが、所謂、探偵モノではない。人生や事件の謎めいた出来事奇怪さが物語りっぽく語られれば、それがすなわち、誰かが、その謎の解明や秘密を明かさねば物語にならないわけで、決して「探偵」でなくても良いわけだ。そういうパターン化を、文豪たvひは決して望んでいるわけではない。それだけに、古典であるのに新鮮味がある。「探偵小説」と冠化しなければ、多くの読者が興味を持ってもらえないので、編者は纏めてこういうめいめいをしたのであろう。これらの作品から、探偵専門の多くの後継者を生んでいるのでも判るであろう。どんなジャンルでも、このように、純文学的な出発点があるのを、どんなジャンルの実作者は、決して忘れてはいけない。わたしは、そのように、これらの作品を楽しんだ。

 これらの作品を、現代仮名遣いに直すと、原文からそれほど離れないので言語的には大きな変化はないのであるが、泉鏡花森鴎外だけは現代仮名遣いにしても、明治調がどうしても残ってしまうが、このニュアンスは、現在では返って新鮮である。日本語表現の古典と現代日本語表現の過渡的中間地点の表現のようで、逆におもしろくユニークであり、その感性の伝達は深い味わいを醸すのである。これらの文体、この語り口、そのニュアンスを、現代の若い実作者は、大いに習作すべきである。そのギリギリの単語選択で、実作者は、重厚な感覚を選択語に与えることができるであろう。川端康成でさえ、この「死体紹介人」という作品は、まさかこの作者が?と思わせるほどに、美的思考停止を強要しないのであるから不思議である。ハハンッ、あの川端康成でさえ、こういう実験的な試みをしたのかと思うと愉快ではないか。

 直接、探偵が登場するのが、谷崎潤一郎の「途上」で、これはさも、翻訳の(例えば、ポーなどの)構成をなぞったようなけ意識である。探偵が、その犯人をどんどん話術で攻めていく形だ。他の作品は、探偵という人間は登場しない。事柄そのものがミステリアスで、所謂、心理的ミステリー状況を懇々と、物語っていくという形式であり、それが、時代的に、江戸期や平安期なのが、森鴎外の「高瀬舟」であり。芥川龍之介の「報恩記」である。どんなに、実験的作風であっても、やはり、これは太宰的、三島的という作風が滲み出ているのが、太宰治の「犯人」であり、三島由紀夫の「復讐」であろう。

 これらの作品は、文庫本で発売中ですのでぜひ、味わってみてください。きっと、探偵モノのあのワンパターンのマンネリから抜け出すこと請け合いです。