●やっぱり、エンタテイメントはどこか変! 小説ならどうなのか?

 映画「ホテル ルワンダ」を観た。公式サイトはここ、(http://www.hotelrwanda.jp/)

 1994年、ルワンダで起きた内戦での虐殺を「描いた!」映画である。100日で百万人が虐殺された中で、1200人を外国企業のホテル・ルワンダに匿い困難の末助けた男の実話である。外国は、この国がアフリカだということで、身近な認識がなく資本主義の原理で救うメリットもなく、無力な国連軍さえ引き揚げて、黒人ばかりが残って内戦が勃発する。

 さて、この映画、実話とはいえ映画であるからドキュメンタリータッチで描くと物語にならないわけで、やはり映画的なエンタテイメントの要素は十分加味されている。まず「音楽」である。そして、あの無味乾燥なニュース報道のように実写で訴えるのではなく、主人公をドラマチックに設定する。敵対する相手の種族から妻をめとっており、所謂「愛」のドラマであり、夫婦絆の映画でもあるところもエンタテイメントタッチである。映画制作は、南アフリカ、イギリス、イタリアであり、決してメジャーなルートでの製作ではなかった。だから宣伝効果もない。アメリカでやっと、一部の映画館で上映されただけだった。日本などは、上映予定などまったくなかった映画だが、インターネットの口コミで上映規模が世界的に広がったものである。日本ではやっと今年の一月、全国に広まったばかりである。エンタテイメントでなければ何事も始まらない世代にこの映画をアピールするには、この映画が、世界に知らされるにおいて緊急を要するものだったにもかかわらず、日本などでは、やっと今年になってからであるから、エンタメ思考がいかに、すべての認識を「停止」させるかがわかるであろう。

 わたしは今、書き言葉駆使の言語表現である「小説」と言語に関しては「音声言語」が中心の「映画」という表現形式とを乱暴に「エンタテイメント」という一つのキーワードで比較して言説しているのだが、この二つの形式にはもちろん表現としての大きな差異がある。しかしながら、作品の受け手である読者や観客にとってはこの二つの形式は結果としては同じ性質の効果を生む。そういう意味において、わたしは、同じ「エンタテイメント」というキーワードで括る事に危惧を感じる。小説にも、やはり「エンタテイメント」中心の作品だってあるのである。同じく、映画にだってその区別はある。だから、映画も一律にエンタテイメント志向ばかりではないと言いたいのである。

 インターネットの前田有一の映画評などひどいものだ。「スリリングなサバイバルドラマである」となる。このように(http://movie.maeda-y.com/movie/00659.htm)と唱っているのである。映画そのものが、エンタテイメントの名のもとに、受身で観れば、結果「エンタメ」の興奮の効果で思考を深く促すほど偉大なる表現ジャンルなのであろうか?なるほど総合芸術としてはその効果も絶大だと信じられている。「小説」などと比べればそうかもしれない。安易な観客にとっては小説の比ではないかもしれない。その力に乗じてその導く言説がいけない。「難しく考えるな」と誘導しているのである。何故このように、安易な受身の観客に迎合するのであろうか?「パールハーバー」のように戦後60年も70年も経っていて、それをエンタテイメントとして楽しむというのならまだ解るのだが、歴史的にそれほど時間が経過していない史実を描くには、さまざまな困難が伴う。同時多発テロを描いた、ハリウッド映画もあるが、これを、今上映中の「硫黄島からの手紙」(イーストウッド監督の日本側からの視点とアメリカ側からの視点でみる二つの作品)などと同列において「観る」のには、大きな誤差が生じるはずである。野茂英雄のように、たかがエンタテイメントではないか!などと言っておれない場合には、エンタテイメントでの表現は大きな限界がある。カナダ製作の日本人拉致家族の映画もそうである。ドラマチックで感動的になるのはよいが、感動が示唆するものはそれだけでよいのであろうか?また、逆に、感動から直接、現実選択行為が発生するというのも問題がある。サルトルではないが、アンガジェマンへの移行には、直情よりも、思考吟味が伴うことも重要であるだろう。「表現」にはなかなか難しい問題が伴うのである。「ホテルルワンダ」は、どちらかというと、観るものをじっとさせておかない要素があって、その「感動」が、なんとかしなければという気分を促すが、とても無力を感じてしまい、虚しさが発生する。こうなれば、どうしても、哲学的要素が必要になってくる。観客としてそこに留まるならば、それなりにどうしても、留まっただけのものを得なければならない。それには、人間の戦いの要素、その本能にまで掘り下げられる、真実への探求くらいしかできないからである。せめて、留まったままであるなら、その真実への思考を求めなければならないだろう。エンタテイメントの感動と高揚が、そのための力となるように、「エンタテイメント」の感動を最大限に浴びておきたたいものである。映画評が振るっている、「この映画は希望に満ちた勇気を与える、難しいことは考えず楽しんで観ていただきたい」とある。なんという、観客への媚であろうか!そこで募金でも起これば、これで一件落着というわけである。しかも、何種類もこの手の映画はあって、ほかの映画とは一味も二味も違うと評しているが、こういういう優劣の問題とは違うのではないか?何もできない、遠隔地にいる我々観客がせめてもできることは、感動の結果を研ぎ澄まし、哲学的結論をせめて出し切ることしかできないはずなのだ。観客は国連職員にも、兵士にもなれない宿命なのだ。ならばそういう人間に訴えるのなら、たとえ難しくとも、居ながらにしかできない、せめてもの方法へ導くことでなければ、いったいどうする?遠隔地にいる人間にできることは、働きながら、殺しあってしまう人間の業の、いったい何故?という回答を得ることしかできないのである。ここで、思考止めると、また同じ種類のエンタテイメントを観て、また同じ繰り返しになってしまうであろう。この答えは、確かに難しい。一生、逡巡させられるだろう。しかし、それを、難しいといって避けるのは、何の意味もない。「難しさ」にもっと素直になりたいものだ。それが、野茂のいう、「何が重要かを的確に知り得た頭脳のいうこと」ではないだろうか?