●第五十三回芥川賞作品「玩具」(津村節子)


 芥川賞も50回を超えると開設以来30年近く経過することになる。石川達三などは、この賞を一回目で受賞し、後に選考委員となり、この段階でもまだ続けているのでデビューからずっと芥川賞まみれである。それに比べると、川端康成などは一回目からの選考委員で、この段階でもまだ健在だ。

 55回(昭和41年)に三島由紀夫がこの賞の選考委員に加わることになる。彼も自死するまでの短いあいだ芥川風作品探しをする。このころに三島のゲイ関係を小説にした福島次郎が応募していればおもしろかっただろうに、残念ながら、福島の作品「バスタオル」が候補に上るのは三島が死んだずっと後のことになる。

 さて、わたしの芥川賞読破は、「されどわれらが日々」(柴田翔)で止まったままだが、次の52回は受賞作なしなので、53回の「玩具」(津村節子)が今年の最初となる。芥川賞に登場する女流の作品は、やはり「女流」という世界が括れるほど、表現センスとモチーフが似通っているのが特徴である。いわば、ジェンダーに擦り寄り、微に寄り最による女心が、表現的に繊細になればなるほど、すばらしい上流作品となっているようであるが、これは、芥川賞の選考委員がみな男ばかりだからであろう。この「玩具」という作品も典型である。いわば、妊娠した妻の立場から、いかにして男の視線から観て、健気で「かわいい」女性であり続けることができるか、女としての自然な自己確立を希求しつつも、いかに男の気持ちに良くそぐうかの他者性をギリギリのところまで犠牲化させる視線を、どうしても表現したいらしいのである。その犠牲的愛の形が、結局、子供を生む段階で形を変えて、わが子にシフトするような変遷を滲み出す。いってみれば決して、男には未知である出産という体験、それを獲得することによって、女性の自立をみいだすような心理的アイデンティティの変遷を予感させる作風リードとなっているのが特徴である。

 わたしの若い友人夫婦がこのあいだ妊娠したので、この本を試しに読んでみてくれとお願いした。彼女もこんな「気持ち」なのか?というわけでお願いしたのだが、現代女性はちょっと違っていて、かなりドライなようである。