●第五十四回は「北の河」(高井有一)

 この作品を読みながらずっと感じ続けたことがある。それは、大抵の読者が、読みのどこから来るのか漠然と感じさせられつつも明確には掴めない、ある選別的な余韻、多少気取ったと言おうか、取り澄ましたとでもいうべきか、小説語りの独特な調子と言おうか、小説が「語る」とはこんな調子なのであるとかなり意識的になっている、過ってある時期小説の語り方とはこんなものだった、と言われるような季節があった、そんな空気を感じる読者は相当に小説読みに慣れている御仁だろう。

 そうなのだ、この小説(文体)の語りは、作者が自己陶酔に陥ったその力で語ったような文体を採用している。かって、どんな物語を語るにも、この調子に載せればとても小説的になったものである。そこには、どこか人を突き放したような、玄人臭さがあって、苦を語っても、喜びを語っても、なんだか小説的言語美とはこんなもので、いわば、この冷たさ、人を寄せ付けぬような調子こそ、芸術的美であり、客観的真実であり、しかもリアリズムを支える表現法なのだと信じられている、あの語りの調子が、とても典型的に駆使されている作品なのである。だから、良い意味でも、悪い意味においても、実作者はぜひ体験しておくべき文体の作品である。

 昨今の小説は客観描写のみで語りつくす事を避けて、別の新手法を編み出そうとあれこれ実験的な手法で作品を試みてきたが、いずれこの客観描写に頼る手法は、過去の遺物と化すだろうから、将来またぞろ復活の可能性はある。それまで、この手法の得意な実作者はじっと暖めておくという手もある。「北の河」という作品は、その対極にあって、この「臭さ」が嫌われて客観描写に移行し、しばらくそれが続いたのだが、その客観描写さえ臭くなり、避けられるようになったのだった。となれば、「北の河」のような手法も、小説がその「独自性」を失わないのであれば、この調子も、もうひとつの文体ジャンルとして温存され、何時復活するか、地下に潜っている状態なのかも知れない。そういう参考書としてこの作品を読むのも実作者には益となるだろう。

 作者、高井有一は、個人的状況を「キザ」に語るのである。いったい、その「キザ」ったらしさは、どんな文章構造で醸し出されるのだろうか?

 まず、作者の34歳というこの作品を書いた年齢、そのすべてが、創作の全視点である。その視点が、中学生の頃の「私」をして、小説での時期と事件を語らせようとするのだが、この「私」と同じ「私」である34歳の作者との境界を曖昧にしているということだ。カッコの会話までが、34歳の語り口である。この調子は、中学生の頃の、母の自殺という事件を、34歳の視点で回想するように回顧調となる。自殺の原因は明確には語らない、いわば、理由不明の感覚は、中学生の頃のまま小説現在まで持ち越されている。入水自殺した母の姿は客観描写に徹しているが、それを支えて語る、美的昇華を狙ったような語りの調子は34歳のものである。中学生の頃の「私」が初めて目撃体験した生々しい印象は既に昇華されて、どこにも生生しさは現れない。お嬢様育ちで、頼るものが無くなった母が生きる方法はどこにもなく、ただただ死ぬしかなかったかのような「哀れ」さを誘うのも、自滅の美意識を意識させるようで臭くなる。しかも、こういう女性の生き方は殿方好みでもある。息子の「私」も、34歳になって、そういう美化で誤魔化す、非リアリズムを知ってしまっている。それが文体構造に現れてしまった。しかも、この当時の芥川賞選考委員たちは、難はありながらもとしながら、結局、選んでしまっている。

 もちろん、小説での時代状況は、終戦前、東京からの疎開先で終戦を迎え、帰っていける東京の家も焼けて戻れない、夫は戦死している、疎開先の田舎も余裕がない、八方塞となった、専業主婦の母は、この田舎の冬を過ごせない、中学生の「私」には、言語外のニュアンスで、ただ「いいわね(覚悟するのよ)」とだけを伝える。息子の「私」には、具体的なものは何も伝わらず、しかし、漠然とながら、母は死を覚悟しているのだとは知れているのだが、どうすればよいかは具体的には判らない。それゆえ、明け方、母がそっと一緒に寝ている布団から出ていくのを知りながら、「私」はそのままじっとしている。母の自死は、小さな疎開先の村では、目立つ大きな事件のはずなのに、描かれる村人までが、なぜか淡々としている。どこか、戦中のあきらめムードがそのまま「原因」としてずっと続いているかのような気配が根底にあり、それが、美化された臭い文体で昇華的に語られると、死の謎への思考が停止するから不思議である。これもエンタテイメントの効果と逆な形で停止効果を発揮する。

 しかし、こういう作品こそ、実作者には、問題含みで勉強になる作品であるだろう。

 五十六回の芥川賞作品は、丸山健二の「夏の流れ」という死刑囚収容の監獄で働く監視員の物語であるが、「死」を描いて、これまた対照的な作品である。しかも、その文体は、まったくの典型的客観描写で貫かれた三島好みの男性的文体である。わたしは、当初、このような文体を最も良しとしていたのだが、今になって読めば、やはり不満が残る。次には、その点なども含めて感想していこうと思う。