●高井有一の40年後の作品に偶然出会ってしまった。

 全く偶然のことだが、芥川賞第五十四回受賞の「北の河」(高井有一)を感想したばかりだったが、彼のその40年後の作品に一気にお目にかかることになった。全くラッキーな偶然である。「文学界」二月号の冒頭に「鯔(ぼら)の踊り」という新作短編が掲載されていたのだ。あの「臭さ」はどう変化したのか、興味津々で読んでみた。文体そのものこそ、多少の気負いは削げ落ちてはいるものの、小説内容のほうがすっかり老いて、逆に老人の孤高さが研ぎ澄まされたようなセンスで、それがまたすっかり達観の粋に検収されたような視線に「臭さ」が移行してしまったような感じである。「作家」という生身の人生においても、その感受がいくら自然のままとはいえ、これではあまりに当然すぎるのではないか。

 出版社が築き上げた、「文学賞」の王道は、それがある程度優秀差の保障をするものだとすれば、その道は、まず芥川賞で、小説家への出発を保障し、その作品の昇華が次なる文学賞谷崎潤一郎賞読売文学賞によってさらなる活躍を保証し、次なる完全なる保障は野間文芸賞を獲得することが、最終的な一応の王道であるらしい。これらすべての賞を加齢と共に受賞した作家はそれほど多くはないので、この「王道」も読者nとっては一応の目安にはなるだろう。例をあげれば、大江健三郎吉行淳之介小島信夫遠藤周作丸谷才一河野多恵子日野啓二、大庭みな子、村上龍などだが、この高井有一も王道登破なのである。そんな中で、この作家だけはなんと小さく纏まってしまっていることだろうと感心する。作家という過去の堆積があるとはいえ、その上でのこの短編の感慨であるとするなら、これは文学者というものの、特異な宿命、「表現者」であらねばならないという業の結果なのであろうか?学者などと比べてあまりに、当然すぎるほど味気ないではないか。ほかの作家の、まだしもの老後に比べて意外性など全くないのである。ちょっと、失望させられてしまった!

 因みに、この「王道」を決定する、最後の賞である野間文芸賞の選考委員のことだが、おもしろいことに、今回新しく、この四つの賞を全く受賞していない、高橋源一郎が選ばれたそうである。たかが出版社のおんぶにだっこの賞とはいえ、これをどう考えたらよいのだろうか。