●「世間」を問い続けた、安部謹也氏最後の総まとめ!(余話)

 ドイツ中世史が専門で、その研究と共に50年間、日本人である「私とは何か」を究極の命題として常に問い続け、日本と西欧の差異を観るのに「世間」という彼独自の視点を設定して「いかに生きるべきか」を見出した安部謹也氏の最後の総まとめともいうべき書下ろしが新書となって発刊された。今月発行だからまだほやほやである。出版社は、朝日新聞社、新書ブームにあやかって去年10月創刊の新参の出発である。編集者は岩田一平49歳、ブログの編集者日記もある(http://aspara.asahi.com/asahi-shinsyo/login/asahi-shinsyo.html)。

 安部謹也氏は、昨年10月に亡くなったが、死ぬぎりぎりまで、最後のこの書を書き続けた。あっさりと、平易に、それゆえはっきりと纏めてあるので、彼の過去の著書を読んでいないと、事「世間」の問題なので単細胞の御仁には極端な誤解をされてしまいそうだが、よく吟味して理解に努めるならば、われわれの中の深層心理に埋もれてしまった、日常生活の矛盾がいかに無意識化してしまっているかに気づかされることだろう。些細な日常の中の出さなければならない不意の結論や決断が、それでよかれと思っても、結局は、ダブルスタンダードな結果と化し、常に建前と本音が交錯する、薄気味のわるい「世間面」をしていることに気づかされてしまう。とりわけ、日本独自の様々な人権問題が少しも片付かないのも、世間の中のダブルスタンダードな気分が、交互に出たり入ったりする日本独自の「世間」が無意識化したり潜在化したりするのを、ずっと支え続けているからなのだ、ということが、この書で理解できるようになっている。

 小説を書く表現者である実作者は、明治このかた、ずっとこの「世間」を描き、語り続けてきたのである。どんな事件もどんな日常も、リアルに克明に、その中の人間を描き続けても、結局は、この「世間」をちゃんと描く事になるばかりでその外に出ることがない。優れた作品であればあるほど、その真実性なるものは感動の度合いだけ「世間」を納得し、肝に銘じるか、奇怪な宇宙人になってしまう夢でも観るしかないというわけだからこの「感動(エンタテイメント)」こそが曲者と化す。文学などに被れるなと昔の現実家はよくぞ言ったものである。文学の諸刃の剣こそダブルスタンダードであり、二重構造なのだからしまつに負えないというわけだろう。

 しかし、安部謹也氏が最後にそういう現実を照射しただけでは、どこにも突破口はありえないわけで、彼はなんとか、結論を出そうとするのである。それがちらほらと各章に垣間見られるが、彼が、死を前に、言わんとしたことはなんだったのだろうか。ドイツ中世史が専門で、いわばヨーロッパ近代史の発展に半分の価値を見出しながら、それがあくまでキリスト教の精神である人間中心の発展を負の遺産とし、その分、日本の「世間」を脱皮した日本人論を展開しようとしているかに見える。それはどうも、宗教的な「親鸞」を、いったん脱皮させた再構築のように見えるのだ。すでに受け継いで、顕在化している現宗教界の「親鸞」ではなく、親鸞継承のスタート地点に立ち返って、出来上がった「世間」とを照合しなおすのである。いったい、どこであぶるスタンダードが形成されてしまったのか、その時間をもう一度辿り直す必要があると。すでに五木寛之などが、この作業をしているように見えるが、さてどのような結果が予想されるか?である。作品評価のひとつとして、いかに、この「世間」が料理されているか、そのモチーフがどう現れているかは、もうひとつの評価目安として、感想者は組み入れる必要があることだけは確かである。安部謹也氏の御冥福をお祈りします。