●懐かしい「されどわれらが日々」(柴田翔)の思い出

 芥川賞作品を読むには、今、文藝春秋社から専用の全集が発売されています。現在までのところ、19巻まで発売されているようです。わたしはこれまで市立図書館のものを利用していたのですが、どうも、他にも読んでいるらしい人がいて、7巻と8巻がなくなっていました。職員の人に尋ねると、この二冊は貸し出しされていないというのです。ということは無断で持ち出されているということです。また購入しなければならないかもと職員さんはぼやいていましたが、悪いやつもいるものです。しかたなく、7巻は県立図書館のほうで借りて読んでいるところです。

 7巻は、第五十一回目の「されど われらが日々ー」(柴田翔)から始まって、第五十八回の「徳山道助の帰郷」(柏原兵三)までが掲載されています。「されどわれらが日々」は、わたしにとって懐かしい作品で、とても同時代的な思い入れがあります。このころわたしは、東京で学生をしていました。学生運動はわたしの大学でも例外ではなく、ほとんど授業が行われない毎日で、どんな運動もしていないわたしは、そういう存在の証を立てるかのようにしてこの作品を読んでいました。マルクス主義思想に染まった学生が、なんだか中心で、わたしは、なんだかとても肩身の狭い思いをしながら、このときを幸いに、この運動の日常とベトナム戦争色の毎日とに挟まれて、奇妙な自由を謳歌しておりました。ノンポリだったんです(笑)。運動している学生仲間と出会うと、始終、議論ばかりしておりました。「何かがちがうんだよ」「しっくりこないんだよ」わたしは、なんのために東京に出てきて学生やってんだろうと、毎日そのことを考えてばかりいました。サルトルを読み始めたのもこのころでした。なんだか、左でなければ、すべてが右であるかのような、中道などまったく選択できないような学生時代でした。「されどわれらが日々」を今読み返してみると、あのころは客観的な批評精神など持ち合わせておらず、そのまま小説にのめり込んで、読んでいたようで、随分と異なった感慨が生まれてきます。今ならば、客観的にこの作品が評論できそうです。