●第五十回芥川賞作品「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)」(田辺聖子)

 第五十回芥川賞作品は、田辺聖子の「感傷旅行」である。時代は昭和三十八年、彼女が35歳のときの作品である。大阪勢である。表現世界に大阪勢というか、関西風というか、そういった一味違う作風や姿勢が存在するようである。彼女も含めて12名で同人誌「航路」を立ち上げる。それまでに、関西での放送用シナリオなどを書いている。この「航路」7号に発表したのがこの作品である。雑誌「文学界」の同人誌欄に「航路」が目に止まる。次第に芥川賞のリサーチに引っかかり始める。何度か候補作が最終選考に上ったのである。それまでに、さまざまな懸賞小説などに応募したりしている。このころ(昭和30年代)、文学界では、「才女の時代到来」と騒がれ女流の作品が目立ち始めるのである。前回の河野多恵子もそうである。さしずめ、河野は関東勢といったところであろうか、受賞作品だけ比べてみても、全く作風が異なる。同じ、スタンダードな日本語で「語り」ながら、河野と田辺とでは、同じ単語でも、全くニュアンスが異なるように伝わってくるのである。昨今の、表現日本語の標準は、やはり河野の「語り方」のほうであろう。それだけの、やはり、表現の標準は司馬遼太郎が指摘したように、非常に冷ややかに響く。同じように、書き言葉的には文学表現標準の日本語が並んでいるのだが、それを読んでみると、この「感傷旅行」の日本語は、響きを異にする。「」の会話文も地の文と独立させた形を採用してはいるが、大阪弁表記ではないにもかかわらず、どこかそのニュアンスは大阪風響きが滲み出ているのである。河野と違うのはその影響かもしれない。

 「感傷旅行」は、小説語りとしては、変則的である。論文などによくある()付きの説明が加わっている。だから、全体の文体は語りを意識していないように見える。読みの調子を、リズムを崩すのである。しかし、全体的に軽い調子なので逆に漫画の会話文字のような効果がある。このような調子で、女主人公有以子の「今度」の恋愛相手との経緯が、男の「ぼく」によって語られる。語る「ぼく」は元有以子の「男」である。今度の恋愛の相手は、党員である。もちろん、あの共産党の党員なのである。「労働者」さまなのである。線路工夫なのである。貧乏と理想のギャップが大きく、この恋愛にも革命の教条的な使命が大きく幅を利かして、恋こころまでが同時に理想的な気分を醸して、シナリオ作家の有以子の気分を理想的で、真実の「愛」だと錯覚させるのである。この「感覚」大阪風の茶化したような語り口で進展する。それゆえ、どこか皮肉っぽくもある。その言葉は何でも良いのだが、「党員」と聞けば、やっぱり、というように、それぞれの思いに共通の感覚が生まれる。そのイメージを大幅に崩し、アイロニーに響く文体なのである。しかし、これはどこか、世間知の勝手な自己決定とよく似ているところがある。この党員との恋愛の顛末はぜひ作品を読んでいただきたい。どんなに、党員の労働者の「イメージ」をダメにするかが解るだろ(笑)。