●河野多恵子の「蟹」

 第四十九回で後藤と同時受賞した河野多恵子の「蟹」に触れておく。

 現在でこそ、河野は「小説の秘密をめぐる12章」などという、小説表現技法のような、評論のような作品で、すっかり作家然として、「新人の作品を読むときは緊張するが、年季の入った作家の作品はやはり安心して読める」などと、その冒頭で言説するほどにベテランとなっているが、この「蟹」のころは、芥川賞選考委員にきびしく叩かれて、候補に何度もあがりながら、やっと受賞した作品なのである。しかし、このころでも、彼女は、それほど一喜一憂はしなかったそうである。後藤のたどたどしい文体に比べると、スマートな彼女の小説語りは、現在のどの小説作品が共通に備えているレベル、トップレベルの小説語りの調子を、このころからすでに備えていたので、選考委員の一部には「だまされるな」というような意見もあったようだ。うまいと、このころは新人だけに、随分勝手な感想もでてくるのだなと、わたしは思う。どんなテーマも、この小説語りの持ち主である河野に「語ってもらえば」きっと、より興味深いテーマの着地を見せることであろう。そのような語りが「蟹」という作品で追求されているのは、やはり「女の性(さが)」である。どうしても、このような「気分」になってしまわねばならない女の自我。それが、うそでなく、自然の振る舞いと気分の結果であって、自然態でいくならこうならざるを得ないのだろう、ということが、否応なく納得させられる語り口なので、わたしなどは、不快に感じるのだが、自然であるからこそ「しょうがない」のだと、納得してしまうのである。それほど、彼女の語り口調は、確信的でスッキリしているのである。さきほども、言説したが、この確信的語り口調は、現代小説の共通のパターンである。現代のどの小説もだいたいレベル的に、このような口調で存在している。こうなるともうテーマで勝負ということになって、少しばかり、小説読みが食傷気味となっているのが、今現在ではなかろうか。そういう意味で、同じ受賞作に後藤のたどたどしさが、逆に新鮮に感じられるのである。

 それにしても、再び「蟹」のテーマだが、なぜに、妻でありながら、その中の「女」を、徹底納得まで、自らを導かないと対人関係(夫との確執)が解けないのであろうかと思うほどだ。

 次の五十回の受賞は、田辺聖子であるが、わたし、これまでの芥川賞作品の中で、初めて笑わせられた、特別体験の小説である。こんなに読みながら、声を出して笑ったのは、久しぶりである。それは、「感傷旅行(センチメンタルジャーニー)である。次に感想する。