●安岡章太郎の「悪い仲間」と「陰気な愉しみ」

 朝鮮半島の国は、今の日本にとって近くて遠い国などといわれている。それはおかしい。戦後61年も経ったからであろうか。かってその国を占領して、その民族性にも深く入り込み日本色統治をしたような日本が遠い国などとは決していえぬのは当然で、この言いぐさには何かあるのである。日本人的姑息さがそこに出ているのである。日本人は、自分の足元さえ分からぬ民族である。「分かる」というセンスさえない民族である。この宿命は、膠着語である日本語を失う以外に方法はない。宿命論ではこういう結論が出る。

 統治時代は、朝鮮半島は日本であった。そういう今よりも広い地域で、シナ大陸での日本拡張の掛け声が聞こえてくる。こんな驕った時代の日本人中学生の話しが、第二十九回芥川賞受賞の「悪い仲間、陰気な愉しみ」(安岡章太郎)という作品である。裕福層家庭の今でいう中学、高校生の年代の、大人になる一歩手前の層が描かれている。その精神レベルにおいて悲惨さは、全くない。女中まで雇っている家庭の子息の物語であるが、この中の主人公が(悪へ)憧れる、具象的人物が、我が地方である朝鮮半島出の子息である。この朝鮮出身の日本人は京都で勉強している。ふるさとはピョンヤンである。この人物が、全くの日本人(当時は当たり前)として違和感なく、この小説には描かれている。いわば、悪の友人なのだが、決して朝鮮出身だからではない。こういう位置関係は単なる偶然であろう。当時としてはめずらしくもない、といったニュアンスがこの小説の語りにはある。少年達にとって、この時代の「悪」とは、どんな種類のものだったのかが、この小説ではよくわかる。

 ずっと後になって、この作家安岡章太郎、や次に受賞する、吉行淳之介などは、「内向の世代」という、文学史的レッテルをはられるようになる作家である。芥川賞がそれを意識(予測)したかどうかは分からないが、これまでの芥川賞作品には、どんなに主人公の内面に食い込んでいるように観えるものでも、こういう筆致でなかった事は確かである。明らかに、この小説で安岡は、人称を意識操作している。「僕」は、という語りで読み進むと途中で、その「僕」が三人称になってしまう。おもしろい操作をしている。