●二十八回は、「喪神」(五味康祐)と「或る『小倉日記』伝」(松本清張)

 昭和二十七年、第二十七回の芥川賞は受賞作なしであった。吉行淳之介安岡章太郎小島信夫などが見え隠れするが、受賞には至らないようだ。不思議に思うのだが、三島由紀夫、わたしはこの作家をずっと意識しているのだが、芥川賞選者の目に触れないのであろうか、この歳27歳である、徴兵検査を逃れた戦中を過ごし敗戦後7年経っている。やはり、芥川賞以外の文壇の流れもチェックしなければならないと思う。

 その芥川賞第二十八回はちょっとした異変が起きている。後に我々が知るイメージとは異なる作家が、芥川賞を受賞するからである。それは、五味康祐松本清張である。純粋娯楽の時代小説と推理小説とは異なる道を歩んだこの二人の作家は、言ってみれば、この芥川賞に引っかかったばかりに、「純粋娯楽」になれず、捻じれた道を生きることになったと言えなくもない。五味康祐などは、編集者が強要する(勧めるとあるが貧乏作家には強要に見える)剣豪シリーズ小説をどうしても書く気になれなかったと言っているほどだ。松本清張も純粋娯楽の推理小説への傾斜よりは記録的な社会派リアリズムの傾斜を、芥川賞の冠の餞(はなむけ)としたかに見えるのである。芥川賞が一方に直木賞という娯楽的、大衆的理解を強調した賞を設けながら、どうして、この二人をこちらの賞に選んだのか不思議である。選者の読みが狂ったのであろうか。時代小説の受賞は、これで芥川賞通算で二回目である。ここにも、芥川賞風時代小説というような読みがあるのかもしれない。二十八回はそれで、この二作家の作品「喪神」(五味康祐)と「或る『小倉日記』伝」とである。

 受賞作だけからみれば、娯楽時代小説だ、推理小説だなどという「差異」は現れておらず、芥川賞風に「人間の生き様」が作家の個性で料理されて深く描かれている、という事だ。スタート地点(デビュー)とはこういう事なのだろう。因みに、この回の受賞決定は選者の多数決だったそうである。仰天決定である!

 松本清張の「或る『小倉日記』伝」は、短編なのに欲張り過ぎたきらいがある。記録文学のような特徴は松本清張の世界だが、主人公の「人間味」が中心なのか、「小倉日記」という森鴎外の九州小倉での生活記録、従って「実史」の明細が中心なのか、区別なく並行的に盛り沢山に詰め込んであって、そのくせ何か、もう一歩薄ぼんやりとした感覚しか残らない。資料収集という柳田国男的フィールドワークに、身体障害者の主人公を投げ込んで描写されるのだが、いかにもノンフィクションらしさを出しながらフィクション風な筆致で、真偽が混乱するのである。だから、結局読者としては、この主人公の「感情」のほうに重点をおいて味わうことを選らばざるを得ないのである。だいたいタイトルからしてすでに「或る」がついているのである。ところが鴎外に関する記述は真実のように読めるから困るのである。スッキリしない、どっち付かずの気分が読後に残ったのは確かである。