●人の言語は「事実」を説明できるのか?(小説表現の虚構という真実)

 「過去」の文学を読んでいて、現代文学では味わえない、大きな力が存在するのに気がつく。それは、その「小説」を「未来」から観ることができるという、当たり前といえば当たり前の話なんだけどね。このことはしかし、重要な示唆を与えるのである。作家によって充分に「租借」されたはずなのに、小説の主人公が、小説の中で、どうしても、このようにしか「動けない」という一定の方向というものが結論付けられていく。それは、その当時では、相対的で十全な結論を持って考え抜かれたはずなのである。しかし、「今」を考えてみると、いったい「なぜ?」というような「運命」を着せられる人間も往々にして描かれてしまったりする。堀田善衛の作品を読んでいて、わたしはそう思ったものである。過去の作品において、「現在」は「未来」なのである。それは、なぜ今現在、日本はこうなっているのか?その対比で考えると、日本人というのは、よくもまあ、その「特性」を守り抜いているものだと思う。この「事実」は、もちろん、「日本語」という言語に秘密がある。そのすべての根底は、この日本語の「特性」と同一歩調で、守られているのである。膠着である所以であろう。何かにコミットするとき、この日本語の特性は、日本人の「性質」を大きく規定する。表現に携わる人にとって、この特性を、原文一致風に、ぜひもう一度考えて見る必要がある。

 わたしはいま、「人は不思議な体験をどう語るか、体験記憶のサイエンス」(ロビン・ウーヒット)を読んでいるのだが、その中に「描写という行為について」という章がある。この言説は、「表現」に実に示唆的である。「現実」と「認識」を結ぶ「言語」がいかに、「現実」を捉えていないか、人間の言語的宿命、現実認識の問題を考えさせてくれるのである。その中にちょうど、「小説とはいったい何を示すのか」という問いを置いてみると、この問題の認識はより高まっていく。「皆様もぜひ、どうぞ!」