●第二十六回は堀田善衛の二作品

 安部公房の文体と小説の関係はおいおい語っていくことにして、次の受賞作品を読んでいく。

 わたしには、あまり馴染みのなかった作家、堀田善衛である。しかし今回、彼の受賞作、「広場の孤独」、「漢奸」を読んで気がついた事は、芥川賞にはこれまでなかった「共産主義」思想そのものが真正面から取り上げられたことである。これはどういうことだろう。明治以来の日本近代文学の発展過程においては、いわゆる共産主義マルクス主義社会主義的な文学作品は弾圧を受けながらでもそれなりに発展し、独自の地位を築いてきた。その文学的、文壇的歴史も明治以来ちゃんとある。しかし、昭和十年に解説されたこの芥川賞には、この二十六年まで、それなりの作品は受賞していないのである。まあ、選考者の顔ぶれをみれば、深層にそういう思想はあったにせよ、ストレートには表面化させるような人々はいなかったので、それもしょうがないことだったのだろう。

 堀田善衛が、正面からそれを作品に取り上げたといっても決して、共産主義の賛美ではない。その「勢力」に翻弄される主人公を描いているのだが、それが正しいと認めつつもどうしても、コミットできない人間を描いているのである。日本の敗戦は、奇妙なことに、資本主義大国のアメリカにも、そして次第に共産主義化する中国にも、そして共産主義国ソ連にも「負けた」のである。つまり、思想的には、左右どちらにも負けたのである。「生きる」というような大衆的切迫さが優先する大衆にとっては、負けの感覚はどちらでもよく、且つどちらでもない。それが現在も続いている大多数の感覚である。資本主義エリートも共産主義エリートもちゃんといるのだが、それらのいづれも大衆をリードしはするのだが、日本の大多数がどちらかになったということはない。現在もそんなどっちつかずは続いている。この大多数をリードし、その真意を突くのが堀田善衛の受賞作「広場の孤独」なのである。村上春樹が、オーム真理教事件をきっかけに「コミットメント」という言葉を使って文学を背景にした社会参加ということを、批評家ともどもに宣言していたが、堀田善衛の「広場の孤独」は、すでにこの頃からコミットメントを問題にして「小説」を書いているのである。木垣という名の主人公を、占領時代のこの思想的に何でもある日本で何が主流になっていくのか選択肢がたくさんある中で、結局哲学的などっちつかずの位置を選んでいくプロセスを描くのである。木垣は、コミットに対し真摯に思考する。真摯に選んでいく。しかし、その結論は、結局、現在の日本の趨勢である「この結果(読者は今の日本を思想的にどのように捕らえているのか?)」を選ぶしかないという位置を選んでいる。そして、作者のコミットメントは、結局この「広場の孤独」という小説を描ききることから始まるのである。それがこの小説である。外国のエンタテイメント小説を翻訳して、趣味のような暮らしをしていた木垣は、義理から戦後設立された「反動」的新聞社外信部で外電を翻訳してデスクに回す仕事を頼まれる。趣味では食っていけないからである。そして、もちろん「義理」というものも追求される。敗戦でアメリカに占領され、その反動で戦中に潜っていた共産思想も自由の名のもとに復活し活発化する。この新聞社にもたくさんそういう人物も雇われている。歴史が、示す通り、自由に花咲いていた日本だったが、朝鮮動乱がそろそろ勃発する。せっかくの自由の中で活発化しつつあった共産思想は、この動乱であっというまに窄んでしまう。なぜなら、アメリカのこの戦いは共産主義との戦いだったからである。その兆候は、外電がどんどん伝えてきている。木垣は、それを訳しながら、コミットメントのことを考える。御国という共産主義思想にコミットしている青年との「つきあい」もある。アメリカの新聞記者とのつきあいもある。妻との関係は、上海時代からの流れで、いわゆる金だけにしか思想の意味を置いていない、貴族の成れの果てのような人物との付き合いもある。共産中国を逃れた、中国人との付き合いもある。みなそれぞれにコミットしているが、一人、木垣だけは中途半端である。唯一のコミットはエンタテイメントの翻訳だけである。木垣は、真摯に、さまざまなコミットを観察的、付き合い的に解していく。それが「小説」で明かされる。客観的文体ながら、これは言ってみれば、純文学と言われる典型のような小説である。

 もうひとつの作品「漢奸(かんかん)」は、日本が敗戦するまで、日本人の元で働いていた、重慶派の中国人の物語で、日本の敗戦と同時に、戦勝国となった中国人なのだが、決して共産主義には最早なじめない中国人が主人公の物語である。

 この受賞二作品は、終戦の混乱を、日本人としてのアイデンティティを、しっかり確認しておこうという意味で出色の小説である。今ひとたび、われわれは、この時点に立ち返って「日本人とは?」を考えてみるのも悪くない。それも小説の効用というものであろう。おもしろいのは、再考に値する「考え」に「金」の問題も、この小説では日本人の「特性」を提供する。無駄金を燃やしたり、捨てたりする「風潮」がどれほど、日本人のアイデンティティと関係があるか考えさせてくれる。共産主義との対比で思考される「小説」はこれからもずっと続いていくのである