● 芥川賞、この頃。

 戦後の芥川賞は、権威的になり文藝春秋社という一企業の宣伝媒体となり、金の流れが文学の質を決定するような傾向になってしまった感がある。しかし、まあ、「懸賞」というシステム(もちろん芥川賞と公募賞の違いはあるが)がそのような内部を持っているからにはどうしようもないのかもしれない。菊池寛の賞に対する志(こころざし)は、作者が自分のために、自分に向かい、読者を意識せずに創り上げた小説が純文学で、読者を意識して、読者のために創り上げた小説が直木賞であり、エンタテイメントであると規定したのだったが、選考委員も入れ替わってくれば、初期の志も変化してくるのかもしれない。
 
 その変化の悪い例が、村上春樹島田雅彦、それに安部和重らの文学的評価を誤ったということだ。彼らは、芥川賞を受賞しなかった。三島由紀夫も受賞しなかった(この場合はいたしかたなかった)。また、松本清張の受賞も一種の捩れであろう。清張の場合は、受賞作品一作のみが「芥川賞風」を思わせたのだったし、候補にあげられはした上の二氏の作品が「自分のためだけに創られたものではなかった」ように見えた作品だったからかも知れない。そこで、次のような教訓が生まれる。「芥川賞は、目利きではない。村上春樹島田雅彦高橋源一郎も逃している」(「文学賞メッタ斬り」より)。しかし、一方で、これは世間読みという奴で、世間的に優勢な村上や島田だったからこそ、敢て「売れること」に反発し、伝統だけを考えたと考えることもできる。それでこそ芥川賞なのだ、とね。

 出版社も「賞」を利用することに価値を見出し、戦後は、芥川賞にならって、作家の冠を付けた「賞」を設立するようになる。出版社以外を加えると、現在では「賞」と名のつくものが500以上もあるのだから驚きである。こんなにあれば、このサイトの作者だって、どれかに引っかかってよいはずである。「賞」を通過しない作品はいつまでたっても素人だアマチュアだと世間が考えるが、この垣根が素人、玄人の差を生んでいるとしたら、とんでもない世間知ということになろう。日本では、おかしなことに、賞はどれか一つ、一回限りしか受けられないという事も世間知に影響している。欧米とは全く感覚が異なる、こちらは何度でも同じ賞が授けられるのにだ。不思議なことである。純文学と言われる小説が日本にしかないというのも、これっ、どういう現象であろうか。何か、環境要因でもあるのだろうか。笙野頼子だけが一人、妥協なしに「純文学」を守っているけれど、わたしも彼女を応援したいくらいである。であるが、彼女の作品はというと、その純文学性は、かなりの実験的試みで抽象的になりつつあるのが気にかかる。最近では、芥川賞の「純文学風」を決定する大御所は宮本輝らしい。彼が「読めない」小説は、たいてい没になるらしい(笑)。わたしは、宮本輝の作品がもし、純文学というなら、それは奇妙だと思うのだが、彼がじぶんのために書いた小説って、いったいどの作品だ?無いのではないか(笑)。