●石原慎太郎の後は、第三十五回、「海人舟」(近藤啓太郎)。

 第三十五回の芥川賞は、「海人舟」(近藤啓太郎)である。このタイトルは「あまぶね」と読ませるらしいが、わたしは、「うみ、人、ふね」と読みたい。そうするとこの小説全体を統一するように思えるからである。この作家もわたしには始めての人である。

 三島由紀夫のデビュー作「潮騒」を思わせる内容であるが、しかし決して、青春の謳歌ではない。この作者は、純文学風小説なるものが、「謳歌」で終わってはならないと考えた節が、この小説から窺える。実は、ストーリーとしての骨格は主人公の愛する女への生活的努力が謡われているのだが、その「愛」が理由だったはずの「努力」が、一人自分のための生きる姿、海という自然への人間的挑戦に質的変化しているからなのだ。そういう最終節に心理描写を置いているからである。愛の相手であるナギという女に、結婚を申し込んだ主人公勇は、疎開先の漁村(この場所は固有化されていない、伊豆半島らしい)で終戦を迎え、引き上げた家族から独立して一人漁村に残り、素もぐり漁の鮑(あわび)採りを生業として生きようとする。それで、海人(あま)と呼ばれるのである。そこで、戦争未亡人のナギも同じく海人をしていて、この年上の女に、勇は恋をする。結婚を申し込んだ勇は、その気のないナギにその場限りの言い逃れに厳しい条件を課すのである。それは、村一番の、鮑漁獲者になり、一番の稼ぎ手になることであった。その条件をクリアしようと勇は挑戦を始めるが、それが実現不可能なほどの条件なのだった、ということに気づかされる。一番になるには、死をも覚悟せねばならないほどの厳しさだったのである。しかし、勇は諦めずに挑戦しているうち、いつしか、これは自然と自分との闘いであると自覚し、結婚のためであることを忘れるのである。それを繰り返しているうちに結婚はどうでもよくなってくるのである。この小説は、そういう最終節に設定されている。死に挑戦してまでがんばる勇をみて、ナギは「死」を避けるがためだけに結婚を承諾するのだが、小説では、この「結婚」は「するのか、しないのか」どのようにでも解釈できる終わり方になっており、その喜びや成功の感動は語られない。もっと大きな「自然」が勇にとっては、一生の相手になってしまった感じが残る。この点を、わたしは、純文学への「意識」と観るのである。おそらく、受賞は、最終節が、「結婚」で終わっていたら、なかったであろうとわたしは考える。