●なかでも出色は「白い人」(遠藤周作)だ!

 安岡章太郎の後、現在知名度の高い作家が立て続けに登場する。吉行淳之助、小島信夫庄野潤三遠藤周作石原慎太郎開高健大江健三郎である。読みも自然と休みなく、大江健三郎まで進んでしまったが、これらの作品は芥川賞の場合、短編か中篇なのですぐに終わってしまうので、何かモノタリナイ!考え込まされたのが、遠藤周作の「白い人」である。小島信夫のデビュー作「アメリカン・スクール」は、ちょっと意外だった。吉行淳之助の「驟雨」はやっぱり、スケベーだったかと思い、庄野潤三の「プールサイド小景」は堅実で、戦後色がないと思い、石原慎太郎の「太陽の季節」はガキッポく、大江健三郎の「飼育」は、やはり芥川賞戦後のなかなか消えない「傷後」路線の一つである。それぞれの作家個人の年譜で読むのではなく、これは芥川賞の年譜で読んでいるのだから当然ではあるが、開高健の「裸の王様」が一番印象に残らなかった。しかし、それぞれに、みな瑞々しい!
 
 第三十三回(昭和30年)の「白い人」(遠藤周作が出色である。小島信夫の「アメリカン・スクール」のような、英語コンプレックスな笑話がある中で、日本人が描いた、屈折したフランス人青年の生立ちの物語は不思議なほど、日本の敗戦後を感じさせないのである。もちろん、時代はナチのフランス(パリ)占領時の物語なのだが、翻訳日本語でないフランスの物語を読んでいる感じである。この小説のテーマは、遠藤周作の宗教、カトリックへの自己アイデンティティー確認の為の物語として読めばスッキリと読める。日本人、キリスト教という内部認識が屈折するためなのかこのフランス人青年の被虐的、サト・マゾ傾向が、ナチに協力するフランス青年の歪んだ喜びとして表される。ここまでの徹底した自己確認がなければ、戦前、戦中を生きた、キリスト者として成立しないのは当たり前だろう。日本語もすばらしい。一度リズムを掴むと、その調子は最後まで、難なく継続できる。だからといって、決して平易ではない。適度の抵抗感がかえって、わたしを興奮させる。大江健三郎の「異化」的抵抗感とはちょっと違っている。遠藤は大江ほど、長くは抵抗しないのである。しかし、その屈折し、曲がりくねった心理の縺れは、サドっぽく、マゾっぽく、へそまがり青年ぽっく、奇妙に錯綜して難解だが、真理への道程を辿っているのだから当たり前である。これが解けないと、遠藤のキリスト者としての存在は偽者となる。まさに真摯でひたすらだが、一方で、なぜこのような意識を持ってしてまで、彼はキリスト者になったのか?言葉にカトリックアメリカ仕込みのピューリタンキリスト教とがごっちゃになったようなところがちょっと気になるのだが、まあいいでしょう。

 小島信夫の「アメリカン・スクール」は笑話好きにはオススメです。占領軍中心の日本で、すっかり遠のいた「英語」教育を復活させるために、日本人英語教師数名がアメリカン・スクールを見学する話で、その中の佐知という英語嫌いな英語教師が、何一つ英語が話せないので、おしのように黙っている人物と、でしゃばり過ぎるほどの会話のうまい山田という教師との対比で、ミチ子とこれも英語のうまい女教師が、結局下手な佐知のほうに、気分が傾くという、まだ戦中気分の残った、珍道中のような物語である。われわれ戦後派には考えられない英語コンプレックスが、おかしくユーモラスである。