●小説は、自由でさまざまでよろしいのだが....。

 一言で「小説」と言っても、読者という存在にとってはさまざまで、それを本という形にして自分の生活圏に取り入れてしまうと、もう我侭に、したい放題である。

 読者にとって、その本とのつかの間の関係の時間は、その本の造られた「経緯」に対して信頼性、希少性といったものが期待され、それによって読書が支えられているつかの間の時間であるということは確かであろう。それは小説であるから、まずその最も信頼性の一番目の基本は、その小説の作者が、ただ一人で、さまざまな創作表現という困難と、そのようにして表現したい「何か」が訴えたい、具象化したい、形にしたいという欲求をバネに渾身の力を振り絞って「仕事」したものである、という期待が、読者の側にはある。たった一人の「仕事」。孤独だが、喜びもある表現という「仕事」、それを一人の人間の作業でなしとげようとした、その結果の「小説」、それは、小説内容もさることながら、その作業自体の産みの難儀もあるだろう。読者が快感すれば、作者のその作業は逆に苦しみであったかもしれない、そんな裏さえも伝わってくる、たった一人の作者の「全体」、そんなものも感じながら、小説というその本を、しばし読者はもてあそぶ。

 小説読みとは、かって、行為の最も基本的な最終単位、純粋「個」から生まれ、その純粋「個」である読者に繋がれる、最小単位の、たった二人だけの行為を提供する知的行為である。それは、作者と読者の、秘密の純粋単位の、共同行為なのである。このような場では、なによりも、そこには信頼性というものがなければ成立しない。このような読者は、その信頼性が裏切られることを最も気にする。かって、小説は、さまざまな種類のこの種の関係を一手に引き受けていた。これ以外に「楽しむ」手段がそれほどなかった時代では、小説は、どんなものでも、その信頼性だけは確保していたように思われる。ところが、価値相対化や、裾野の世界が、小説を取り巻き始めて、さまざまな人間が小説という世界にはりつくようになって、最小単位の希少性が、しだいに薄れ、多数の共同作業で「小説」が「作られる」ようになって、その信頼性は拡散してしまった。読者は信頼性を疑いつつ、一人の世界に、その小説世界を彷徨わなければならなくなってきた。「作者」の顔が見えなくなってきたのである。

 まず、最初のそのよい例が、あくまで作者が全責任を取っているように見せかける小説群の大量生産である。そのきっかけは、出版不況の出版社編集人と作家になりたい症候群の無数の人間とが秘密裏にドッキングして生み出される、一連の「小説」マーケットができてしまったことである。作家になりたいがその動機たるや、そのまま「作家に」であって、却って不純で希薄な動機を、編集者はその情熱だけを煽るように利用し、その技術だけを、短期間に特訓させ、量産の即戦力としてロボットのように仕立て上げるのである。まさに、編集者の特権を利用して、企業の生き残りのために、「なりたい症候群」を発掘する。自転車操業というシステムを最初から作り上げて、その抑圧をバネに利用し、いくらでもいる「なりたい症候群」の中から選び出す。そんな風にして出来上がった小説家が、いまや、小説界全体の90%を占めている。俄仕込みの、特訓を経た動機不純の幻のような作家の、共同作業的な作品を、そんなことは露もしらない読者は、漠然と植えつけられた、世間知的判断、古典的小説観念という「えらそうなモノ」の染み込んだ気分の中で読まされるのである。一対一が楽しみの勝負のような読書経験、作者という得体の知れない、読者にとって何かしら恐ろしいものであるというような、当初の体験は、この90%の小説で、ことごとく裏切られてしまう。ある作家のフィクションを読まされて感銘し、さて、読者は、そこに何らかの原体験のような、現実認識を得たとしよう。読者にとって、その気分を埋め合わせるものは、唯一、それを表現した「作家」に向けることしかできないのである。ところがその作家は、まるで雲をつかむような、ところにいるか、あるいは、ばらばらな個が散らばったかのような没個性な人格が見え隠れするようなところにしかいないとしたら、どうであろう。編集者は、そこで、そのロボット先生をして、さあ、この世界はエンタテイメントの世界だ、真実なんてものや、ご意見などというものは、そんなものはありはしないのだ、次なるエンタでそれを克服しようなどと、煙にまく。この応対は編集社長のプロダクションにまかせましょう。作家先生はいそがしい、となる。

 作家も小説も、このようにして、「なる」ものではなく、造られるものである。その大元のところの作家さえ、「なる」のではなく「つくられる」もので、「なりたい」という気持ちだけを編集者という神様に提供すれば、出来上がってしまう、世界に「なってしまった」のである。編集者と出版社は、なぜかその裏側をひた隠しにする。秘密にしたがる。それは編集者の力量は功を奏しているとはいえ、どこかに漠然と「罪」の意識があるからである。よいことづくめは、そちら側にあって、読者側にはないからである。この秘密を見破られたら見向きもされなくなるからである。一方で大江健三郎のような作家を世に出し、それを称えながら、そのような小説を読めなくする読者を大量に生産sるることにも、加担している「罪」の意識があるからである。だから、なんだか、さっぱり分からない大江の小説と大江という作家は、どんどん神様のような、読まなくても分かったような場所に押しやられるのである。こういう、恐れ多いいものも傘の元で、90%の仕事をしていれば、箔のほうも、考えあぐねることなしに安心して、エンタメできるということだろう。

 編集者が、作家になりたい症候群の動機の不確かな卵たちを洗脳し特訓する「教科書」がある。それは世に出ている、小説の書き方、作家になる方法、などとは一味もふた味も違っている。これは企業秘密である。さすがに、この書はすごい。そのマーケット戦略から、どんな卵が適任かまで、確実に「成功」するように、科学的(笑)である。企業コンサルタントな出来栄えである。その中の、創作技術的タブー集など見ると、ここでわれわれが、あれこれ批評感想する手の内なるものは、生産され薄弱化する読者層に合わせて刻々と臨機応変に変わっていく。わたしは、その結果、作品と読者がたとえ10%に成り下がってでも、この10%が、当初の出発点であり、そこからスタートして、今日まで、小説と読者は来ているのであることを忘れず、この数を死守しなければならないと、今一度、ここで確認しておきたい。

 このサイトは、オープンであるからして、90%のさまざまな作品が掲載される。されはするが、わたしのような。こういう目で感想批評がなされることもあることを投稿者は知っておいてほしいものである。