●難しさはなぜ必要なのかを問う、大江の作品

 第三十九回は、大江健三郎の「飼育」である。

 大江健三郎の小説を読むとき、常に驚かされることは、単語、文節、文章という枠が、緻密に意識的に、その配列までが計算され尽くしたような選択行為の結果であり、成果だということが強く窺われることである。作者が持論でいつも言っている「手法」の結果であるような、まさに、彼の書き方の教科書のような感じを受ける作品群である。まさに、彼の文章は「非日常的」である。どんな言語も、すぐに日常化して、その意味もニュアンスも通俗化する宿命にあるのに、その言語しか、小説家は道具を持っていない。それを使って小説という言語芸術にしなければ成り立たないという宿命があるものだから、この宿命から懸命に逃れようとする表現意思は、大江にとって強烈な使命のようなものがあるのであろう。読み解けば、読み解くほど、その意思が作品から、さまざまに伝わってくる。

 今回は、芥川賞受賞作品だけを、わたしは感想しているので「飼育」という作品だけしか論じられないのだが、これひとつを取り上げてみても、23歳という早い時期から、その文章(文体)への大江流姿勢は出来上がっていたのだという事はよくわかる。彼は、小説を読む側からも、想像力の喚起の問題や、ある感覚や意思といった伝えたい素材や感覚を、単に一種類として感得感受するようなやり方ではなく、かなりボリュームのある成分として取り込むよう伝達するのだが、確かに、読後の印象は、同じ日常に見えていたものが、それとは異なった感覚を伴って印象づけられてしまうのを読後に感じてしまうのである。

 大江の作品を読むときは、読みのスピードがずんと下がる。それが、読みに腰を落ち着けさせる。中途半端な気分で、さらっと早読みすることを拒否させる。そして腰を落ち着けて読み始めると、今度は、スピードが落ちるだけでなく、引返すことまでさせる。小走りを許さないとでも言わんばかりである。この引き返しをさせるのは、決して、理解に難しい単語や文節が並んでいるからでは決してない。むしろ言語そのものは易しいのである。しかし、単語と単語を繋ぐ「係り」が意識的にトリックされていて、まるで日常語の発話をせき止めるように読みの慣用を変質させようと迫っているかのようなのだ。我々は、読書といっても、無意識に、読み始めると発話行為(音声会話の慣用)を始めてしまうのだが、これがまず破られる。書き言葉の人工技術のような「意味取り」を要求されれ、映像取り込みの視覚神経のほうが刺激されるようなのだ。その結果、読者は、物語を聞かされた経験のようには、小説の言葉を音読できないことになる。文章配列を「見て」しまうような、妙な強制を感じてしまうのである。彼の作品読みはまったくもって手こずるのである。声にも出せず、見るに任せられず、どのように、文章を追っていけばよいのか。これが大江の作戦なのである。彼の小説は、決して読者に優しくて親切ではない。多くの読者は、かれの作品の味わいから、このようにして挫折する。だから、このノーベル賞作家は、多くの読者を大衆の彼方へ追いやってしまう。しかし、そこには、小説ならほかにたくさんある、その楽しみは、ほかのどんな作品だって用意してくれるなんて思わせず、引っかかったまま、後ろ髪引く余韻を残すので、始末が悪い。真摯に考えたら、薄気味が悪いのである。

 わたしは、この「飼育」を読んだのは、長いブランクを入れて三度目である。しかし、読むつどに、読みの感得にボリューム感が、脂肪のように厚くなるのを感じる。「飼育」の中の少年たちの感覚が、ものすごくリアルにボリューム感溢れて伝わり、感覚に定着してしまうのを覚えるのである。ほんとうに、伝わった感覚は、純な、子供感覚というべきか、忘れていた子供心というべきか、その純粋なもののみが、残存していくのを感じる。もとより、飼育での、感覚感受は、子供たちの「自然」を表したいのが作者の目的である。その最終目的な「結果」とそれを表そうとするための文章とは同じではない。いわば、その手段は大がかり(ややこしい言い回し)なのに、結果はちゃんと、目的の純粋さが、それのみ残っているのである。この点は、実作者の陥りやすい罠だろう。多くの実作者は、たとえば、純粋な、子供の心の「自然」を表そうとするのに、その表現手段である、描写や言説さえも、わかり易く、小さくしてしまうということはないだろうか?ここで、また大丘氏を出して恐縮だが、「おじいさんの唄」のあの少女を描くに、その手段である言語までも、平易にするという作者の「無意識」が作用したりしないだろうか?「飼育」も、少年の心の「自然」を描いている。しかし、その描かれている道具の使用法は、複雑きわまるくらい、ややこしい。まるで「大人の言葉」なのである。いっておくが、この「飼育」は「ぼく」が語る一人称形式なのである。こんな、語り方をする子供はいないと読者は思ってしまうだろう。しかし、大人びた子供が表現しているようでいても、伝わってくるものは、確かに、純粋に「子供こころ」なのだから不思議である。いや、不思議などといってはおれない。これは、作者の表現戦略なのである。かぎ括弧の会話までが、子供のものであるにも関わらず、大人びていて、音声化して読むのが憚られるくらいである。しかし、そこは用意周到で意識的である。作者は、語られる(表現される)言語配列は決して子供のままでよいなどという通俗化は許していないのである。以下は、子供同士がよく、お医者さんごっこと称して戯れるシーンを、「僕」が小説で語っている例である。

 「泉では、最も広くてなめらかな台石の上に寝そべった裸の兎口(みつくち)が、女の子供たちに、彼の薔薇色のセクスを小さな人形のように可愛がらせていた。兎口は顔を真赤にし、鳥の叫びのように笑い声をたてながら、時どき、やはり裸の女の子供のお尻を掌でひっぱたくのだった」。

 なんというお上品な単語選択だろう!この語りは、そのまま、決して小学生の「僕」の科白ではない。ないが、感得されるものは、とても子供っぽく、多くの余韻を残す。

 次の例などは、大江初期の特徴である、原始的な、驚きと好奇がセクシュアルに、自虐的に定着して快感に結びつく感情を描く部分である。これも、子供の視線になっている。

 「黒人兵の形の良い頭部を覆っている縮れた短い髪は小さく固まって渦をつくり、それが狼のそれのように切りたった耳のうえで煤色の炎をもえあがらせる。喉から胸かけての皮膚は内側に黒ずんだ葡萄色の光を押しくるんでいて、彼の脂ぎって太い首が強靭な皺を作りながらねじれるごとに僕の心を捉えてしまうのだった。そして、むっと喉へこみ上げてくる吐気のように執拗に充満し、腐食性の毒のようにあらゆるものにしみとおってくる黒人兵の体臭、それは僕の頬をほてらせ、狂気のような感情をきらめかせる....」

 「飼育」は、まだ戦争が終わっていない時代で、そろそろ敵機が日本本土を飛舞し始めるころの四国の山村が舞台で、敵機の遭難で、一人の黒人兵が村人に捕まり、殺されるまでの、少年の黒人に対する好奇に満ちた「視線」の物語である。その「視線」で得られるものは、ものすごく自然な、山村の外を知らない子供の未知に対する好奇の感覚である。この感覚こそは、少しも大人びていない。素直で自然なのだ。そして、それゆえ、その自然はとても残酷である。恐怖も好奇も不安も、すべてが子供のもので、原型的である。しかも、子供の、自然な仕草がとてもよく表現されている。一瞬のうちに感得される対象からの、あらゆるもの、選択のない、全てそのままの感得、子供が好奇に捕らえる「全体」というものは、決してどんな些細なものも見逃さないのだなということが、大江の「異化」された、複雑な文体からそれを窺うことができる。「僕」とその弟と兎口という少年の、さまざまに自然な密着度が、これほどボリューム感のある余韻で伝わってくる文体はないかのようである。そのための文体といえば、決して、そのまま平易ではないというのがミソである。「平易を伝えるに難をもってする」ということはあり得ることなのである。23歳の大江のこの、原始的嗅覚のようなものは、その特徴ある文体から、独特に伝わってくる。この生臭さが、彼の初期の作品の特徴であろう。