●第三十八回は、開高健の「裸の王様」

 この後、大江健三郎の「飼育」が受賞することになるのだが、それによって、この時代、この開高と大江は流行作家の双璧となる。すでに、大江は開高受賞のおりに、候補作として「死者の奢り」が上がっているが、「裸の王様」に敗れている。開高28歳、大江25歳のときである。この決戦のときから、二人の作家に関するマスコミの言説数は、現在から比べても最も多く、二人を言説することは、開高の所属する、サントリーを宣伝することにも繋がり、同時に、出版社文藝春秋も潤うという、文学以外のところにも効果波及があったという、歴史的決戦になったのであった。

 それにしても、開高健芥川賞受賞作「裸の王様」は読みつつストレスが溜まってくる。いったい何が原因だろうと、考えてみるに、小説の進行、その題材を「心理学的観察」とでもいう言説で語っているからである、ということが読書途中で解ってきた。安心して読める小説というのは、その小説の「語り」が一定のトーンを維持して読み手がその手法に身を任せられ、早めに慣れるということが条件だが、この条件はまあ、候補にあがるくらいの小説なら基本的に真っ当されているものだとして、開高の「裸の王様」の場合、読みに慣れたあとに「思わせぶり」な行為描写で人物を展開させるところにあるようだ。読みのこの第二段階において、なおも心理的思わせぶりが続いたのでは、「何故?」の規制気分がかかったまま、呼吸困難をきたすからなのだ。彼の文章中の単語選択は、だいたいにおいて三音節、長くて五音節ほどの呼吸を与える単語を並べる仕草があるようで、わたしには、読みの生理に楽な性質の文章なのだが、それによって与えられる「意味」がどこか決定的でない。ネガティヴにしろ肯定的にしろ、納得というような生理現象を読むわたしに与えてくれないのである。せっかく読みに慣れて、この小説世界の住人に、作者と共になり切れたというのに、その世界がどことはなしに、ふわふわと心理の不確定な波にのせられているようで、まったく不安定なのである。もとより、作者は、わたしのような読者を、彼の小説世界に導き得たのだから、もう土俵は彼のものなのである。読者をどう洗脳しようが、どう導こうが意のままにし得たのであり、まさに作者の主張は成功するも同然なのに、いつまでたっても、ちゅうぶらりんな状態に置くのである。わたしは、願わくば、自分の慣れの気分が覚めてしまわないことを祈るばかりなのだ。

 「裸の王様」というタイトルが示す対象は、読み始めて、作中に登場する「太郎」という奇妙な子供のことだということが、しだいに解ってくる。どうも、この子供が、大人の現実世界の「型」にあまりのも、すんなり収まっていて、実に礼儀正しい大人の現実からみれば、表面的にはあくまで「大人」ででもあるかのような態度なのである。にも関わらず、語り手の「ぼく」は、この子供を、大人びた礼儀正しさ故に疑っているニュアンスで描写される。その描写がその心理に何かあるという風に、心理的思わせぶりの「文体」なのだ。いわば一種の「子供の心理というやつ」の種明かしをしようとしているようなのである。この作者の「電通」的歯切れのよい天才的な宣伝文句など、一向に伺われないのは、やはり文学を意識してのことであろうけれども、「子供心理」の解明には逆効果というか、実験プロセスだけが続く語りには、しだいに閉口させられてくる。

 小説全体の起承転結からすれば、この「起承」の部分が、子供の心理プロセスになっていて、「結」に導くに必要な「宙ぶらりん」なのであるが、ここを通過するのに欠伸がでるのである。それに、語り手の「ぼく」が、先生のようであるのが教室を連想させ、しかもそれが「お絵かき」教室なのである。実は、この小説は、いってみれば、作者開高健の仕事である文章を使っての宣伝という企業営利と純粋営利とでもいう対決の、開き直りとでもいう「意味」が裏にあるのが次第に見えてくるのであるが、その進行を裏に隠しているために、事は複雑になってくる。「裸の王様」は躾け正しい大人の意向に沿った、子供のしっぺ返しというアフォリズムなのだと解るのは最終節になってからで、どんでん返し的効果を狙ったのだろうけれども、これは短編でほんとによかった。長編が期待できる題材だが、この調子での長編だと、わたしは、欲求不満で気が狂ってしまいそうだからである。こういうトーンは、ミステリーの話法にピッタリであろう。あくまで現実的という場所に引き戻す責任はミステリーにはないわけだから。この作品は、その心理的使用が、一般的に定着している現在では、童話としても読めそうである。