●「赤頭巾ちゃん気をつけて」庄司薫

 芥川賞作品の最近の若い作者の「文体」傾向の特徴は幾つかある。それは、小説表現が目指した「言文一致」が過去の作家の表現と比べて高度に進んでいること。限りなく「私」の感情感覚に密に接近していること。従って、モチーフやテーマを思考するとき、深く思考でき、論理化でき、その言語化(表現)に音声発想との「ズレ」が生じない。言ってみれば、日常会話にもそのまま、文字化する表現と同じ言語を用いても、そのまま書く場合と両方に使用可能な言語群で文字化しているといえる。その分、彼らとの日常会話は、音声会話でも、深く突っ込んだ会話が可能であり、そのまま、あらゆる素材が創作にまで転化可能である。書くときと、話す場合に、表現のギャップが生じやすい過去の表現者と比べれば、良い意味でも悪い意味でも現代の表現者は、余分な技術に苦心する必要なく、ストレートにテーマに挑むことができる技術だけは整っているということができよう。

 このことは、しかし、音声会話の言語をそのまま文字化して書いてしまうその安易さを信じこんでいる表現者と同じであるということではない。ここまでくるのには、それ相当な迂世曲折と言文一致への努力があったからである。庄司薫の文体は、彼の開き直りとも見える、これまでの小説表現への、自分とのしっくりこない反骨が生んだものである。例えば、このサイトのT・Tさんが「奇を衒うのではなく、平凡な日常をそのまま自信を持って描く小説でなぜいけないのか?」と問う時の、一種の反骨である。そういう反骨精神が、それほど冒険もドラマもない大多数の「日常」が、克明に描かれてなぜいけない?と表現に拘るとき、それはもう、この庄司薫の、この「赤頭巾ちゃん気をつけて」の「文体」のような手法で挑むしかないだろう。その小説内容よりも、この「文体」がまず先にモノを言っている、どうせ描かれる日常などはどんな事件が起きたって、たかが知れている、ならば文体で勝負するしかない、といった気迫が、結果的にネチネチした文体特徴となって顕れるのである。このねちっこさは、読み手を現実の自分と同調させ、それが交互に絡むようにしてネバネバした気分に落とし込められる。それが、幼馴染の女の子に対する複雑で等身大の感情であれば、突飛な脱皮があるわけでもない、日常感覚が力を持って迫ってくるのである。こういう「文体」は、中村文則クンなども同じなのだが、彼の場合の狙いは日常感覚だけに満足していないのが特徴であるが、言文一致の高度な常套手段は共通している。おそらく、こういう「文体」を定着させたのは、この庄司薫が初めてであろう。過去の芥川賞作品にも、こういう「文体」での表現は無かった。この作者は、現代風「語り」の先駆者であろう。いかにも、日記風私小説然としていて、それが日本風純文学の流れの基本であるとすれば、それをよく全うしているというべきであろう。しかし、この絡みつくような粘っこさは、現代ではもう少しサラリと読者を突き放すような文体に変わってきているが、この文体は目下のところ若い書き手の常套手段となっているようだから、このサイトの若き実作者はぜひ確立しておいて損はないだろう。