●1、「年の残り」丸谷才一

 もう何度も芥川賞最終選考5、6編の候補に挙がって、年齢やら文体やらが毎回ぴったりせず、中途半端なまま落とされ、この人はもう自分の世界を持っているから芥川賞候補でもあるまい、などと評され、ずるずると今回まで受賞を逃してきたのが、丸谷才一である。このような状況になってしまうのにも一理ある。なにしろ丸谷の作風は、どちらかといえば、物語(小説)的というよりも、評論的作風なのであり、学者風、文学研究的な世界が最初からできていて、英文学の研究、翻訳が、我が日本文学への地盤になって、明治以来の風潮を引き継いだ、典型的移入の世界で、小説を発表している。こういう実作者の場合、小説内容はどうしても、日本人そのものの内的事件などという身近な問題には直接すすまず、どうしても、内的問題は二の次で、表現法のほうに主眼がおかれることになる。いわば小説の主題は、日本における「表現」そのものの世界レベルへの願望のほうに眼がむきやすいということで、まあ小説内容は、手っ取り早く、身近な素材であってもよいわけで、案の定、やっと芥川賞を獲得するこの「年の残り」という作品は、いわゆる庶民的ドラマ性を欠き、学者風身辺の、深い考察、人生の「時間」というような老いが問題とされている。深刻で上羽陽なテーマなのだが、これも、エンタメ趣向の一般読者には見向きもされないテーマで、芥川賞読者を限定することになる選考作品となった。

 わたしなどには、この時期、非常にピッタリで有意義な読書になるのだが、あらゆる層に向けてもあまり効力を奏さないだろうと思う。いずれわたしのような年齢になったとき、しかし、この作品を読むことと読まないことでは、自らの人生を味わうのに、決定的な違いが生じるだろうことはたしかである。この作品のような味わいで、過ぎた人生を省みることができないとなれば、いったい、どんな人生を生きたというのだろうとはっきりいえるくらいに、この作品が、その時期にあると無いのでは大違いとなる。こんな、終末論的な余韻をいったい丸谷は何歳の時に書いているかといえば、御とし43歳のときなのである。「文学界」の掲載されたのがきっかけだが、すでに丸谷は、それまでに様々な作品、評論をこなしている。なかでも、ジェームスジョイスの「ユリシーズ」の翻訳とその研究は、「文学」の可能性やその位置の追求という世界レベルでの動きの乗っていたのである。いわば、その結果としての文学表現を試みていて、その実験結果が「年の残り」にも現れている。こういう目論見のある作品であるから、芥川賞選考委員たちもとまどったことであろう。「たかが、デビュー作家の発掘」なのに、こういう文学研究者の作品をいまさら推しても始まるまいというわけである。

 丸谷は、この作品で、70才代の引退した医者を主人公にしている。その視点で、同じ年齢の同級生の人生、その息子の世代、孫の世代までも、視点を広げて物語っているのだが、物語るといったって、大きなドラマ性のある事件など語られるわけではない。無事に過ぎた人生そのものが驚きであるかのように描いているだけだが、しかし、これこそが実は「事件」なのだとわたしには思える。なぜなら、その意味を深く問う形で物語っているからなのである。普通は、問いたくとも、そんなことは難問過ぎて問わない、問えないであろう。しかし、この作品は、それにトライしている。問いの周辺素材は、絵画、文学などが扱われ、実人生の無意味と重ねられる形で追求されている。小説全体の時間は最も落ち着いた、反省的静寂な時間が流れているのである。43歳の年齢で、このような静寂を背景に持たせているというのはすごいことである。現代の43歳はもっと軽いのではなかろうか?とはいえ、丸谷の小説全体はいつでもこんなに静寂であることは言えることだ。不思議なことに、この受賞作は、丸谷独特の旧仮名遣いは駆使されていない。東大出身の小説家というのはみなどこか似たような遍歴があるのもおもしろいものである。