[文学関連、芥川賞」●2、「三匹の蟹」大庭みな子

 ベトナム戦争の頃の日本女性って、まだまだ耐える事が美徳であるような観念を持たされていたと思うが、大庭みな子の「三匹の蟹」の女主人公は違っているようだ。実をいえば、心底違っているのではなくて、上辺だけのようだが、たとえ表面的であったにせよこれほど男と女の境界が曖昧なことは、国内ではやはりまだ奇異に思われただろう。

 「三匹の蟹」はアメリカが舞台である。大学院留学している夫に付き添って家族ごとアメリカで暮らす妻の、これまた、どの女流作家のものとも同じ、自己追及が及ぼす「結果」が追求されている。同じ私小説でも、女流の場合はどうしていつもこう、同じように「超自己」へとのめり込んでしまうのだろうか。それだけに、我侭との区別がつかないくらいである。この女流の共通感情は、やはり、無意識に日本の男社会での「女」の不合理が骨身にしみこんでしまっている結果なのであろう。この家族は「自由」を日本から離れた外国で、二重の意味で謳歌しているはずなのだが。こういう女性の根底に通奏低音のように鳴り響いている無意識感情は、現在の女性作家にもあるのだから不思議である(というより、これもまた日本典型のダブルスタンダードの結果なのだが)。

 そして、大庭みな子の芥川受賞作であるこの作品は、いかにも「小説」ですというくらいに「臭い」。これは短編なのだが、前半のアメリカ式友人を招いてのパーティのシーンで「会話」が駆使される、その調子といったら、無意味な会話を醸し出す狙いがあるにしても、いかにも「臭い」のである。こういう白々しい会話シーンは、ここから始まったものか、以後の実作者は、しばしばこういう文章を、作中に挿入するようになった。これはその典型である。「アイロニー」を含ませてはいるのだが、大抵は全てにネガティヴである。そこにアフォリズムなど微塵もなく、ただ消化しなければならぬ時間のためにあるような会話が続く。小気味よく書いているつもりだろうが、こういうパターンはすぐに飽きてしまう。してまた何故に、いつも、女流がするこういう会話は、セクシュアルな要素が動機となった会話ばかりになってしまうのか、そこに何か理由があるのだろうが、女流作家に聞いてみたいものである。どうしても殿方に媚びているようにしか思えない。きっと「男がそういう視線を持っているからよ」というような答えが返ってきそうだが、そういう紋きりがおかしいのである。多数に媚びるようで、いかにも安易である。なにしろ、日本のこのパターンは1000年以上も続いているのである。ポルノならこの区別は必要なのだが、その自明さを出すために、このように使われたのでは、あまりに「芸」がない。

殿方選考委員もそう感じていながら、これを推薦するのだから、いったいどうしてなのだ?と思わせられる。どうしても出てしまう女流のこういう部分は、時代小説などの誤魔化せるジャンルで発揮してもらいたいものである。おそらく、この傾向は、日本的ダブルスタンダードが完全に溶解してしまうまでは続くに違いない。もしそうなら、これは永遠に消えてしまわない問題となる。

 後半部分にこの無駄が生きるのだろうかと思いつつ読んだが、そうはならなかった。何を気取って、作者は、こんなシンボル的小説作法を試みているのだろうか、さっぱり判らない。三島は、この始まりと終わりの組み合わせを「すばらしい」と評価するが、こういう小説的臭さはもういらない。冒頭に、女主人公が早朝の海で疲れきった身体を癒すように、海辺に佇み、実際の「三匹の蟹」の動きを観察している。実はこのシーンが小説の終わりなのだが、単に夫が催すパーティがいやなばかりに、この妻はうそをついてパーティを逃れるのである。姉に会うという嘘をついて、パーティの間中、車で、どこにいくあてもなくその時間を潰しているうちに、夜の遊園地で残りを過ごすのだが、そこで遊園地の若い従業員とできてしまうのである。しつこいアメリカ人青年の要求にのらりくらりと応じているうちに、結局朝まで過ごすことになってしまう。そのホテルの名前も「三匹の蟹」で、それに重ねているのである。パーティに出るのがいやで、それを避け、単に無意味な時間を過ごしただけなのである。夫からの脱出があったわけではない、ただ我侭な自由に身をまかせた結果、単なる自由の意味だけが肥大化するような結末である。不自由が根底にあるのならまだしもである。臭い美文が、いかにも何かありそうな素振りなのだが、思わせぶりなのはもう今となっては時代遅れである。美文の悪弊である。