●丸山健二のデビュー作「夏の流れ」

 「時間」という概念は不思議なものである。その概念は人間固有のものではないかと思うこともある。時がカウントされ始めると、それはどこか「進行」するイメージがあるが、実は、その先へ進む感覚は宇宙時間などとは違うのではないかと思わせられる。それは単に変化ではないか、それは単に繰り返しなのではないか、あるいは単に退化であるのかもしれない。いずれにしても、実感的にはそれは単に「現在」であり続けているようで、過去も未来も、それを表すとなれば、言語と記憶という留保が必要で、過去も未来も、この条件によって常に「現在」の中にある。人間はなぜこのようなややこしい装置(脳)という機能を持たされたのであろうか不思議である。人間に「言語」機能と記憶装置がなかったら、時間は常に「現在」でしかない。そしてその現在は常に反復と再生でしかない。言語の堆積とは、記録されて物質化されない限り存在しないも同然であり、単に脳の記憶に頼っているだけでは、それはいつしか消滅して「今」に戻ってしまう。

 丸山健二の23歳の時の芥川賞受賞作品「夏の流れ」は、昭和41年のあの時の「今」の丸山健二があるはずなのだが、平成19年の「今」の丸山とカウントされた時間は異なるが彼にとっては、あの「今」もこの「今」も同じレベルですべての「今」の中にあるのではないか。肉体と生理の「変化」確かに存在していることだろうが、記憶となってしまった、この過去の「遺物=作品」は彼の中で変化はしていないはずである。それは不可能なことだ。しかし不思議なことに、人間はこの過去となって物質と化した遺物に振り回される。振り回される彼は、常に刻々と「現在」を刻んでいるにもかかわらずである。実は哲学的に「生きる」とは、この永遠の「現在」を生きることなのだが、文学者、とりわけ小説の実作者はどうなのであろうか。丸山の生き方は、小説家でありながら、どちらかといえば、哲学的現在を生きているように見える。かれが、この作品で芥川賞を受賞していらい、続く過去の遺物となる作品を読むと、変化はあるものの、あの「現在」はほとんど変わっていない、単なる老衰という生理的変化のみが存在するような、そういう気分が生まれてくる。肉体が死滅するまでのあいだ、丸やmは常にこの現在をいきなければならない。いや、人間はそのようにしか生きられないことになっている。途中で自死や殺人、事故にあわないかぎり、人間は常にこの「今」しか生きられない。それが虚しく無意味だと考える人もいれば、肉体の消滅が怖くて賢明に生きている人もいる。人間の「脳」機能は、たんぱく質で生成されているから、機能に微妙な差異が生じるのはしかたのないことである。その差異具合によって、この「今」を生きるのに、下らないと思う人や、すばらしいと思う人に分かれてしまうのもいたし方ない物理的な問題なのだ。言語と記憶装置をうまく機能させられる人だけが人間にしか理解できない遺物の生産が可能なのであって、誰もかれもがこのように生きるとは限らない。こんな判り切ったことを申し上げて大変もしわけない。しかし、過去の遺物を、その作者にそって過去の「今」を読むとき、このような視点は大変重要である。作品が作者から離れて一人歩きするとはこういうことをいうのである。「今」しか生きられない作者(人間)が、いちいち作品に責任をもっていたらこんな不合理なことなないだろうと思うのである。

 「夏の流れ」の中で作者は死刑囚の「死刑」の場面を描いた。受刑者は、やくざな人間で暴力的で、いわば死をも恐れぬ神経で殺人を繰り返してきた人間である。その人間の、抵抗が哀れである。死刑囚は文盲として描かれている。一方で、それを実行する看守の主人公がいる。主人公は、死の観察者であり、看守という人生を送っている普通の人間である。「死」観察する人間だから、「死」を考えないわけではない。誰よりも深く「死」の意味を考えさせられているがゆえに、その日常生活の単なる瑣末な行為が意味深長な様子を帯びている(ように描かれている)。子供や家族といく好きな釣りも、そういう背景から描かれるので所謂普通の「釣り」ではないかのごとくに見えてくる。作者は、この仕事にまだ馴染めない新参の同僚も登場させる。たまたまこの同僚が、死刑実行の係りに選ばれ、その暴力的抵抗にあう。この仕事は彼には向かないということで、仕事をやめようとする。主人公の寡黙な日常生活は、この同僚に「慣れるしかない」ことを示唆している。結局新米の同僚はこの仕事を止めてしまうのであるが、小説は、最後の「実行」まで淡々として描かれていくのである。

 「夏の流れ」は完璧なる客観描写で「語られる」。しかし、多くの読者は、この「死刑実行」の場面の真実の描写を知らないはずである。イメージとしては、映画などから切り取った、実際とは違うかもしれないというズレを抱えながら読むはずだ。そういった不信感をエンタテイメントでこの小説は誤魔化しているわけではない。この不信は作者の「今、現在」にも継続しているはずである。「死」の意味はずっと問われ続けているはずである。その後の丸山健二の作品を読むとき、この「死」の問いは忘れてはならないモチーフとなる。遺物が記憶として堆積化するとは、現在においてそういう意味でしかない。哲学的作家とは、こういう存在をいう。作家という生き様が哲学的であっても、その作品が哲学的であってはならないのが、小説という宿命なのである。小説作品は、常に哲学的語りの中で、その人生の範例としてのみ使われる存在だ。