● 第三十四回芥川賞、「太陽の季節」(石原慎太郎)

 第三十四回芥川賞は、石原慎太郎の「太陽の季節」である。この受賞は、敗戦後からやっと十年たった、昭和三十年である。作者が学生の時、23歳、処女作「灰色の教室」から二作目の作品であった。これまでにあった「敗戦気分」はまったく無いのが特徴である。その生活がヨットを所有し、かなりの富裕層の風俗が描かれるのも、現代的である。小説の中の「恋愛感覚」も今とそれほど変化がない。三十歳になった、三島由紀夫は、石原慎太郎というこの若者へ羨望と嫉妬の眼差しを向ける。

 さて、この小説だが、「文体」は、大丘氏のいう、所謂「説明文」という箇所が相当に素の文章に多用されていることである。進行は、会話と「動き」を表す、所謂「客観描写」が受け持っている。ところが、この23歳の若者である作者は、客観描写で表される、主人公やその彼女の「恋愛行動」に関して、大丘のいうところの「説明」を加えているのである。この説明が、多少教条的で、心理的なニュアンスがあって、心理的な箇所はまあ、心理学的用語を使えば、客観性を帯びてそれほどでもないのだが、「愛」という観念的説明に、倫理的要素があり、説教がましさがあるので、23歳という年齢でのそういう判断が多少信頼性を失うのが気にかかる。

 そうはいっても、やはり多くの選者は、この作品を一番に選んでいるのである。つまりわたしが言いたいのは、端的に、「説明文」はこの作品のように必要なものであると言いたいのである。大丘氏の作品は、言ってみれば、この「太陽の季節」という作品から、この説明文を削った作品なのであると言ってよいかと思う。そこのところを参考にしてみていただきたい。読者に、判断やイメージを委ねるというが、それが無制限であっては、作者のモチーフ弱いと問われることになる。やはりどうしても、表現物には、実作者のモチーフが存在しなければならない。とくに、あれも、これも書くという実作者にはそれが必要ではないか。純文学はそういうところからは生まれない。是非、ご参考に!

 この作品が映画化可能になったのは、主人公の彼女の「死」が設定されたからである。今のところ「死」は、純文学では描けない。どうしても、その「死」は借り物となってしまう素材だからである。だから、ミステリーや大衆小説で描かれる素材となってしまうのである。それこそ、死は大衆感覚の範疇に任せたほうが無難に決まっている。「太陽の季節」がかろうじて、芥川賞風純文学となりえたのは、この「死」で物語を中断させたからである。「死」の意味を、この小説は、読者に委ねてしまったのである。そういう終章をこの小説は採用している。今になって思えば、石原慎太郎は、まだ生きているのである。彼は、三島由紀夫と違い、この死を、未だに素材としたままなのである。だから、殺す事は考えられても、自死や殺されることは考えられないのである。三島の嫉妬は、まだ続いているのだろうか。全く、正反対を行っている。