野呂邦暢の「草のつるぎ」 

●「芥川賞作品全集第十巻」には以下の作品が掲載されている。

「鶸(ひわ)」三木卓、69回、昭和48年上半期
「月山」森敦、70回、昭和48年下半期
「草のつるぎ」野呂邦暢  70回、昭和48年下半期
「土の器」阪田寛夫 72回、昭和49年下半期
「あの夕陽」日野啓三 72回、昭和49年下半期
祭りの場林京子 73回、昭和50年上半期
「岬」中上健次 74回、昭和50年下半期
志賀島」岡松和夫 74回、昭和50年下半期

 この第十巻は他の全集に比べて私好みの作品が多く掲載された。

 「鶸」は主人公の少年が凛々しい。「草のつるぎ」は無意識のカミングアウトとなった「いたせくすありす」な作品で羞恥なく告白的なストーリー展開が興味津々だったし、「岬」は世間的スケベーエロスな環境の中で異質なエロスが醸される主人公設定が中上健次らしく、「志賀島」では語りの少年が表現する主人公の少年への憧れ的な心理がほほえましい。「あの夕陽」の「男」はストレートという「男」性のどうにでもなる気弱性の典型で「男」の哀れが好ましい。「月山」と「祭りの場」は私好みのエロスがまったくない作品だが、これはこれで、大いに引き付けられた作品だった。森敦は「死」という感性が、林京子は意外なことに、原爆投下のその下の人間模様がこんな形で描かれたのに接した初体験だった。ということで、この巻は特別な巻だったが、考えてみれば、たまたま受賞作二年間がこのように続いたということで、この時代の流れに何か意味がありそうである。

 さて、芥川賞受賞作品70回目、昭和48年、下半期の「草のつるぎ」という作品である。
 私はここでスタンダードな文学批評を避けることにする。
 これは、私にとって非常に重要な作品の一つになった。というのは、作者、野呂邦暢という作家に個人的付き合いはないが、読後に非常に親しみを感じた作品となったのである。「芥川賞作品全集第十巻」の中の、二、三の資料を検証するだけでもう充分のその理解が得られたのだから不思議である。作品のインパクトからそれはくるのであろう。

「この10巻のなかの資料」で作家のイタセクスアリスは「内部のホモセクシュアル性」表出が充分に露呈されている。それは作品を読まずとも一目瞭然である。イミジクモ作者の経歴を見ると晩婚にして6年後に離婚しているとの隠された大きな原因は、この作品の主人公の進む道であるための原点が「作品」理解で納得されてくるのである。一人称語りの手法を採用しているために、その傾向はいっそう顕著になったが、どうも作者にその意識はないよにうに見える。そこが作品昇華のポイントであろう。作品の昇華的洗練と同時に作者自身の実際の内部も「昇華」されている節がある。傾向は多少異なるがまるで三島由紀夫的である。作品内容は、二十歳の青年が自衛隊に入隊してその感慨を語るという単純なものである。そういう内面を秘めたこの作品が、当時の芥川賞受賞となったのには、秘めた内部が文学作品として一般的に受け入れられるための作者の文学的昇華能力が生かされたためであろうし、昭和48年というその時代も影響している。何しろ敬遠されがちな「自衛隊内部」の話というわけなのだから。文学的昇華能力に最も長けた作家は三島由紀夫だったが、最も個人的にそういう場を表現して見せたということが、三島とは違っていた。