「皇帝」ベートーベン。

 「最後の晩餐」というダビンチの絵画がある。この絵そのものは、まるで虱潰しのようにすみからすみまで研究解釈されつくされている。絵の中のテーブルにのっている料理はいったいどのようなものであったか、などというのもそれである。イタリア料理であろうことは窺えるが時代が時代である。しかもその料理を食している人物達が超大物だ。何か特別な料理であるに違いないと思うであろう。しかし、研究の結果はうなぎ料理だと判明している。
「うなぎ」ときけば日本料理しか思いつかない私は、こういう結果に驚きを感じてしまう。塩バターでソテーされた炒め料理なのだそうである。こういう解釈がこの絵に付け加えられると、これまで眺めて感じてきた「最後の晩餐」という絵の印象が、また変わってくる。

 ベートーベンの「楽譜」も長年さまざまな分析解釈がなされているらしい。書きなぐり捨てられた楽譜やベートーベンの個人的日常生活の分析などが総合的に加えられると彼の交響曲の一つが様変わりする。これまでに聴いてきた曲がガラリと変化する。それら総合的な研究成果によって新たに書き換えられた楽譜が出版される。このような楽譜をもとに演奏するような指揮者とオーケストラはいない。研究成果として学際的に音楽大学などで試みられることはあっても商業オケなどは、これまでのベートーベン解釈で決まりだと演奏することはないようだ。

 スイスの名門オケ、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団とディヴィット・ジンマンは1998年ころからこの総合解釈による楽譜で録音、CD化して世に送り出すことを試みてきた。2010年になって私は偶然にもこの録音に初めて接して、この事実を知った。そして、もうすっかり嵌ってしまっている。懐疑的気分は最初の驚きの時だけで、あとはもうすっかりお気に入りで、これまでのベートーベンはなんだかもうすっかり色あせてしまっている。古典音楽を聴くという態度がなくなってしまったのだ。シンフォニーならまだしも、コンチェルトとなると、たとえばピアノ、いったいどのピアニストが手を付けるだろうか。ショパンの有名なピアノコンチェルト一番など、ピアニストの中村弘子はおっとりした旧楽譜でデビューし、それが定着したものだから新解釈の楽譜など手がつけられないというほどに独奏楽器のある楽譜は「古典」を維持するのが恒例となっているのである。「皇帝」ではイエフィム・ブロンフマン、ヴァイオリンではクリスティアン・テツラフが、この新解釈に挑戦しているのだが相当な冒険だろう。21世紀は、さまざまなジャンルの融合化時代だといわれる。文学しかり、かって私はジャズとラテン、アフリカ音楽など別々に、ジャンルが切り替わる毎に気分を変えて浸ってきたのだが、そこから行き着いたところにはやはり、ラテンジャズという融合ジャンルが生まれていた。その過渡期には奇妙なモノも生まれるがこうして定着してくると、それはもうすっかり完成された一つの「音楽」となる。サルサに取りつかれた日本人、デラルースのメンバーが廃れ、今度はラテンジャズの日本人の取りつかれグループがまたうまれようとしているように、きっと日本にも新解釈のベートーベンオケや指揮者が生まれてくるだろうと思う。