●第二十五回(昭和26年)の作は「春の草」と「壁」

 第二十五回の芥川賞は二作であった。「春の草」(石川利光「壁」(阿部公房)である。「春の草」が、従来の芥川色である、伝統と堅実を受け継いだ作風の作品で、新しい小説を模索するもう一方のこの賞の目的も適う「妙な」作風の「壁」とである。

 敗戦後の日本はまだなにもかも中途半端であり、にもかかわらず極端である。働くにも、とにかく食うためが優先である。そんななかに、戦争の極限状況から解放された復員を主人公において、焼け野が原に放ちその生活の一端を小説的に描いてみたら、どんな人間像ができあがるだろうか。「春の草」の作者の意図はそんなところにあるようだ。幸せなことに、この主人公は、戦争以前の「生の気分」を混乱のなかから次第に取り戻していく。惨めのように見えるが、やはりそこには「解放感」があり、自由な空気があったからであろう。負けたとしても終戦とはそんな気分を生むものなのだろう。「今」から読むと、状況が過酷なだけ悲惨さが目立つのだが、この小説は、質的には、じつに大らかな幸福感を歌っている。芥川賞に似つかわしくないナという気がする。タイトルもいたって、通俗的ではないか。どうして、こういうのが選ばれたのだろう、そう思いつつ読んだ。

 対比的なのが「壁」である。超観念的であるばかりか、その幼稚っぽい語りの日本語も、その素材も、なにもかも、現実を遊離して、おかしな世界へ導こうとする。芥川賞のこれまでのどの作品にもなかった、作風の作品である。いったい、どんな意図があってのことか。知られるように、阿部公房の作風は、以後ずっとこの調子である。処女作「終わりし道の標べに」だけが、いわゆる「普通」の作風であり、自伝的出発点であり、原点なのだが、この原点を内に秘めたまま、その文体(語り)は現実をひっくり返したような調子となる。「壁」はその出発であろう。わたしは、芥川賞選者たちが、どんな顔してこの小説を読み、選んだのかを想像して密かに笑ったものだ。おそらくその顔は、凹凸鏡に映したような「顔」つきだったに違いない。にもかかわらず、選者達は、選びきったのである。彼の小説が、一番自然に読めるのは、日本人よりも外国人だろう。なぜなら、こういう作風は、西欧文学では普通だからである。日本文学専攻のアメリカ人ドナルド・キーンが逸早く目をつけたのも良く分かる。阿部公房の作風は、すでにしてインターナショナルなのである。村上春樹の先輩なのである。そうであるならば、日本語なのに、なぜ、このような、世界共通感覚ともいえる、文学的感性が導き出せるのであろう。そういう意味で、阿部公房の文体は研究するに値する。それらを踏まえて、感想していこうと思う。

 ●第二十六回は堀田善衛の二作品

 安部公房の文体と小説の関係はおいおい語っていくことにして、次の受賞作品を読んでいく。

 わたしには、あまり馴染みのなかった作家、堀田善衛である。しかし今回、彼の受賞作、「広場の孤独」、「漢奸」を読んで気がついた事は、芥川賞にはこれまでなかった「共産主義」思想そのものが真正面から取り上げられたことである。これはどういうことだろう。明治以来の日本近代文学の発展過程においては、いわゆる共産主義マルクス主義社会主義的な文学作品は弾圧を受けながらでもそれなりに発展し、独自の地位を築いてきた。その文学的、文壇的歴史も明治以来ちゃんとある。しかし、昭和十年に解説されたこの芥川賞には、この二十六年まで、それなりの作品は受賞していないのである。まあ、選考者の顔ぶれをみれば、深層にそういう思想はあったにせよ、ストレートには表面化させるような人々はいなかったので、それもしょうがないことだったのだろう。

 堀田善衛が、正面からそれを作品に取り上げたといっても決して、共産主義の賛美ではない。その「勢力」に翻弄される主人公を描いているのだが、それが正しいと認めつつもどうしても、コミットできない人間を描いているのである。日本の敗戦は、奇妙なことに、資本主義大国のアメリカにも、そして次第に共産主義化する中国にも、そして共産主義国ソ連にも「負けた」のである。つまり、思想的には、左右どちらにも負けたのである。「生きる」というような大衆的切迫さが優先する大衆にとっては、負けの感覚はどちらでもよく、且つどちらでもない。それが現在も続いている大多数の感覚である。資本主義エリートも共産主義エリートもちゃんといるのだが、それらのいづれも大衆をリードしはするのだが、日本の大多数がどちらかになったということはない。現在もそんなどっちつかずは続いている。この大多数をリードし、その真意を突くのが堀田善衛の受賞作「広場の孤独」なのである。村上春樹が、オーム真理教事件をきっかけに「コミットメント」という言葉を使って文学を背景にした社会参加ということを、批評家ともどもに宣言していたが、堀田善衛の「広場の孤独」は、すでにこの頃からコミットメントを問題にして「小説」を書いているのである。木垣という名の主人公を、占領時代のこの思想的に何でもある日本で何が主流になっていくのか選択肢がたくさんある中で、結局哲学的などっちつかずの位置を選んでいくプロセスを描くのである。木垣は、コミットに対し真摯に思考する。真摯に選んでいく。しかし、その結論は、結局、現在の日本の趨勢である「この結果(読者は今の日本を思想的にどのように捕らえているのか?)」を選ぶしかないという位置を選んでいる。そして、作者のコミットメントは、結局この「広場の孤独」という小説を描ききることから始まるのである。それがこの小説である。外国のエンタテイメント小説を翻訳して、趣味のような暮らしをしていた木垣は、義理から戦後設立された「反動」的新聞社外信部で外電を翻訳してデスクに回す仕事を頼まれる。趣味では食っていけないからである。そして、もちろん「義理」というものも追求される。敗戦でアメリカに占領され、その反動で戦中に潜っていた共産思想も自由の名のもとに復活し活発化する。この新聞社にもたくさんそういう人物も雇われている。歴史が、示す通り、自由に花咲いていた日本だったが、朝鮮動乱がそろそろ勃発する。せっかくの自由の中で活発化しつつあった共産思想は、この動乱であっというまに窄んでしまう。なぜなら、アメリカのこの戦いは共産主義との戦いだったからである。その兆候は、外電がどんどん伝えてきている。木垣は、それを訳しながら、コミットメントのことを考える。御国という共産主義思想にコミットしている青年との「つきあい」もある。アメリカの新聞記者とのつきあいもある。妻との関係は、上海時代からの流れで、いわゆる金だけにしか思想の意味を置いていない、貴族の成れの果てのような人物との付き合いもある。共産中国を逃れた、中国人との付き合いもある。みなそれぞれにコミットしているが、一人、木垣だけは中途半端である。唯一のコミットはエンタテイメントの翻訳だけである。木垣は、真摯に、さまざまなコミットを観察的、付き合い的に解していく。それが「小説」で明かされる。客観的文体ながら、これは言ってみれば、純文学と言われる典型のような小説である。

 もうひとつの作品「漢奸(かんかん)」は、日本が敗戦するまで、日本人の元で働いていた、重慶派の中国人の物語で、日本の敗戦と同時に、戦勝国となった中国人なのだが、決して共産主義には最早なじめない中国人が主人公の物語である。

 この受賞二作品は、終戦の混乱を、日本人としてのアイデンティティを、しっかり確認しておこうという意味で出色の小説である。今ひとたび、われわれは、この時点に立ち返って「日本人とは?」を考えてみるのも悪くない。それも小説の効用というものであろう。おもしろいのは、再考に値する「考え」に「金」の問題も、この小説では日本人の「特性」を提供する。無駄金を燃やしたり、捨てたりする「風潮」がどれほど、日本人のアイデンティティと関係があるか考えさせてくれる。共産主義との対比で思考される「小説」はこれからもずっと続いていくのである

 ●人の言語は「事実」を説明できるのか?(小説表現の虚構という真実)

 「過去」の文学を読んでいて、現代文学では味わえない、大きな力が存在するのに気がつく。それは、その「小説」を「未来」から観ることができるという、当たり前といえば当たり前の話なんだけどね。このことはしかし、重要な示唆を与えるのである。作家によって充分に「租借」されたはずなのに、小説の主人公が、小説の中で、どうしても、このようにしか「動けない」という一定の方向というものが結論付けられていく。それは、その当時では、相対的で十全な結論を持って考え抜かれたはずなのである。しかし、「今」を考えてみると、いったい「なぜ?」というような「運命」を着せられる人間も往々にして描かれてしまったりする。堀田善衛の作品を読んでいて、わたしはそう思ったものである。過去の作品において、「現在」は「未来」なのである。それは、なぜ今現在、日本はこうなっているのか?その対比で考えると、日本人というのは、よくもまあ、その「特性」を守り抜いているものだと思う。この「事実」は、もちろん、「日本語」という言語に秘密がある。そのすべての根底は、この日本語の「特性」と同一歩調で、守られているのである。膠着である所以であろう。何かにコミットするとき、この日本語の特性は、日本人の「性質」を大きく規定する。表現に携わる人にとって、この特性を、原文一致風に、ぜひもう一度考えて見る必要がある。

 わたしはいま、「人は不思議な体験をどう語るか、体験記憶のサイエンス」(ロビン・ウーヒット)を読んでいるのだが、その中に「描写という行為について」という章がある。この言説は、「表現」に実に示唆的である。「現実」と「認識」を結ぶ「言語」がいかに、「現実」を捉えていないか、人間の言語的宿命、現実認識の問題を考えさせてくれるのである。その中にちょうど、「小説とはいったい何を示すのか」という問いを置いてみると、この問題の認識はより高まっていく。「皆様もぜひ、どうぞ!」