●さて、そろそろ問題の安倍公房が登場する。

 サイエンス(科学)は日本語でその支配体系全体を「文明」と呼んで「文化」という呼び名とは一線を画してきた。この分離した状況が統合され始めたのは、やっと最近のことである。それとゆうのも、デカルトの「物質と精神」という二元論的分離を、実は「分離」ではなく一つの人間学的場所の問題であるとする統合原理が「物質」の中に発見されたからである。「精神」という未知の高見にはまだ未解明だから、この精神の一歩手前の、それを支配している「生命」を実は「物質」からの融合の対称としたほうが「文明」の進む順序というものである。精神はやっと、まだその手前の生命現象の中から仄見えたばかりである。その方向を決定付ける「DNA」と同じ要素が「精神」へは「脳」であることは確実である。今、「物質」界は、この脳を介して、精神界へと向かいつつある。これらの流れはデカルトから始まったが、結局、サイエンスという「物質」からの究明を正当な方法であることは誰も疑うものはいまい。

 これがこのサイトの「表現」の問題、小説の問題とどういう関係があるかと思わないでもらいたいのだが、実は、ここに「言語」の解明なしに「表現」の「真実」が語り得ない究極の問題があるのである。文学批評が、感覚的印象批評から一歩はみ出して、構造分析的になっていくのは、前説した、このサイエンス(文明)の流れと連動しているからである。これらの言説がどうしても、メタ言語的になってしまうのは、サイエンスそれ自体も「表現」がなされて始めて、サイエンスの「真実」が感得されるという経過を経ることはあまりに自明だからである。SFという小説のジャンルや、ノンフィクションが、直接にこの使命を帯びているように見えるのは、この「真実」探求の「手段(表現)」にかかっているからである。「小説と批評」、それらが、連携して、芥川賞小説も読んでいかなければならない状況は、戦後にそろそろ始まる。なぜなら、芥川賞は、初めて安倍公房という作家を世に出すことを選んだからである。この作品を、印象ひ批評だけで選考理由としたら、後後、こまったことになるであろう。そういう問題とからめて、次なる芥川賞作品を読んでいくことにしよう。