●第二十三回(昭和25年)は「異邦人」(辻亮一)

 異邦人といえばカミユを連想してしまうが、ここにも日本人作の「異邦人」があった。なかなかの秀作だ。敗戦の時期が多感な二十代なら、混乱な時代環境がその人に及ぼす影響は多大なものがあることだろう。永遠に存在するはずもない、他国を奪った植民地に一生を生き骨を埋めるというような人生が可能だと思うほうがおかしいのだが、現地に希望を持った多くの日本人がいたことは確かである。そういう人間の運命は、今となっては「知れた」ことになっているが、終戦とともに、日本人は即刻本国に送還か、命からがら引き上げたものだとばかり思っていた。ところが、終戦から四年たっても、まだ多くの日本人が中国に残っていて、その日本人が、戦勝した中国共産党が建国する新生中国の住人(軍人)となって生きていたのである。 一人や二人ではない。残った日本人全部がである。やがてその彼らも、日本に送還されるのは歴史が示すとおりだが、彼らは捕虜ではなく、れっきとした共産主義者なのだから、まったくもって奇妙なここちがする。「異邦人」という小説に描かれている、この日本人はホンモノなのであろうか?小説を読むかぎり、フィクションではあるが真実に思えてくるのである。主人公「私」、丘上博、30歳前後が、引き上げ前に中国の「木枯国」という架空の場所で「生きるために生きた」奇妙な物語である。すでに、木枯国は共産主義思想のもとに着々と戦後の建国を実施している国であるが、それが戦勝国「中国」であるのは確実である。日本人であるこの主人公は、まだ日本が支配していた頃の日本企業で働いていたが、敗戦(この場合中国だから勝戦というのか?)の混乱の中で妻を病死させてしまう。そのまま敗戦によって帰国せず、妻の死に衝撃を受け、ちゃんと埋葬させてやれず(埋葬のシーンは圧巻な描写である)そのまま、中国各地を亡霊のようにうろつき始めるのである。ちょっと「ビルマの竪琴」(竹山道夫)を彷彿とさせるが、とにかく彷徨っているうちに、この国の共産党東方軍区第一病院付属療養所にたどりつき、そこで炊事夫として働くことになるのである。ここで働いているのは中国人ばかりだと思ったら、何人かの日本人もいて、しかも「オルグ」なる日本人幹部までいるのだから驚くのである。この日本人オルグたちに、思想的な転向へのいじめを受けながら、最低限の人間としての「生」な状態で、「生きる」ことを試みる小説なのである。異邦人は、その命名なのである。わたしが、不思議に思ったのは、ここで働く日本人オルグたちである。かって彼らは神国軍人だったはずである。いくら、帰還するまでの間だとはいえ、この変わりようは、戦後内地での変容を皮肉るようでおもしろいではないか。実に捩れた感覚を与えられる。蟹工船の小林が逆になったような錯覚を起こさせる。どっちも、立場によっては、同じような虐げる、虐げられるという位置が逆転するのである。これだけでもう正義なる意味を、よほど徹底した納得が必要だということがよくわかる。がしかし、この小説は思想物語ではない。どちらかといえば宗教的である。どんな虐待にもじっと耐える主人公に中国人仲間たちがつける渾名「坊主」がそれを象徴しているようだ。この作品も、芥川賞作品を読み始めてのホリダシモノのひとつである。