●「確証」のほうが、イライラする分だけ軍杯か!

 「本の話」(由紀しげこ)という作品は、学者に嫁いだ姉夫婦の面倒を見る妹の「私」の「グチ」の話であるが、その文体はなかなかのもので、一つ話しに触れると、それを中心にもう次から次に、それに纏わる感情やら薀蓄やらが響きだしてきて、今必要なこの小説の伏線を維持できなくなりそうなほど、作者のセンスが文体ににじみ出てくる、豊富さがある。これは、この作者がかなりの年齢に達しているからであろう。しかも、金にこまる敗戦後の混乱にあるのに、なんだかそれが他人事のように感じられるのが難点で、こまった、こまったと言説しながら、その緊迫感がさっぱり出てこないのである。受賞の理由が、敗戦の貧困が常識なら、この程度の「いつわり」は夢となろう、なんて感覚で選ばれたとすれば問題である。そう誤解しかねない作品である。

 一方で「確証」(小谷剛)という作品は、わたしは、実にイライラしながら読んだのだが、その「理由」がさっぱり掴めないので困るのだ。この作品の何かが影響を与えてイライラが生まれていることは確かなのだ。だが、それが文体からきているのか、内容からきているのかまだよく読みきれていないのである。二十五歳という作者の年齢で、「女」に対する、屈折させたセクシュアルな感情を、医者という権威的な視線で正当化させようとする語り(文体)が鼻につくのである。弱者として相手を認め、その上での「てごめにしたい」その権利は「男」であれば当然であるというような、セクシュアリティがいかにして生まれるのか、「僕」という語りが、いかにも自己反省的な調子を持っていながら、この執拗さは何だろう。作者のフロフィールは、この自伝的私小説を証明するかのようである。選考委員の意見は二分する。この作者の作風は「異端」であり、これまでの芥川賞の路線である堅実性がないというわけであるが、わたしのイライラは、その「異質」からきているのだろうか。素材の選択とその視点に対するイライラだろうか、ちょっと区別がつかないのである。

 こううい作品が出てくるということはやはり、戦後なのだと思う。だって、以前には、こんな調子の作品はなかったからね。なかなか波乱のスタートではないか。読者をも巻き込んでこんなに悩ませるなんて。それにしても、この「確証」はフェミニズムのおばさんたちを怒らせるに違いないことはたしかだろう。