●第141回上半期芥川賞受賞作品「終の住処」磯崎憲一郎

 マイノリティな私の感性からすると、いわゆるストレート達の夫婦というのは「このようなもの」ではないかと思うのである。このようなものとは言ってみれば決して人が羨むような夫婦生活、世間のいう典型的でおきまりの結婚後の男と女の仲、餅に描いた教条的で一見幸せ気なそれではないという事である。

「終の住処」の夫婦はとてもマイノリティな要素を持たされて描かれている。意識的にではなく、関係の自然さを正直に観察すれば、世間のどの夫婦もこのように似たり寄ったりではなかろうか。サラリーマンの作者が、素材は自分のものではなく、どこかの奇抜な夫婦関係を驚きを持って収集して描いたのであろうが、実はそのストレートな作者の中に共鳴するものがあって、それが供応したのである。世間の典型的な夫婦を自認すればするほど、この奇抜さは頭をもたげてくるのである。多くの当事者は、「それ」を隠す、やりきれなさの結果、それを美化してなぐさめようとする。「人間は成人するとなぜ結婚しなければならないのか?」明確な答えは、世間が提供しているが、結婚してみた当事者は少しも明確ではなく、かえってそれだからその明確さは単なる圧力と強迫観念となって、現実とのギャップに翻弄されるだけだ。
 
 作者は、典型的にも「それ」を我慢と宿命というお得意の処理法で乗り切る。その結果こういう夫婦像が、おしつけがましくも文学作品化する事で、奇妙に美化されることになる。

「國文學」という雑誌がある。

 歴史のあるこの雑誌、最近の人間はこの雑誌の存在さえしらない人が多いのではなかろうか。よく持ちこたえていると思う。また、これからもずっと続けてほしいと思うが、ちらほら廃刊の噂も漏れてくる。文芸雑誌「文学界」の同人誌批評欄も今年いっぱいでこの欄がなくなるそうである。こういう「変化」は表面的に、時代の表象部分が変わってくるのに合わせて変化するのはそれほど問題はないが過去から連綿と続く文学的基本というか「追求」の成果の蓄積の上に成り立っている肝心な部分まで変わってしまうのでは全く意味がなくなってしまう。そういう「変化」は無知の上に現れてくるのですぐに化けの皮が剥がれて淘汰されてしまうので問題はないのだが、世代交代のときその「流れ」が無知なためチンプンカンプンな状況が出てくるのが問題である。それぞれの当事者が入れ替わるとき、その「受け継ぎ」しっかりするのはなにも労働の問題だけではない。今ここで論じている東や武田の姿勢にも、世代交代の観が強いのだが、どこかでどうしても蓄積というより排他的な部分が見え隠れするのが残念である。

 とまあ、「國文學」や「同人誌欄廃止」の話が飛んでしまったが、世代交代の引継ぎはメディアの編集者にも大いに責任がある。この雑誌の7月号の特集は「地方の文学」だったが、大いに考えさせられた。その中で「文学界の同人誌批評欄」廃止を知ったわけで「國文學」の特集がなければ、一般のわれわれは知りようがなかった。メディア雑誌の無責任と儲け主義はなんとかならないものか。

第51回群像新人文学賞、批評部門入選作、武田将明の「囲われない批評」

 文芸批評家東浩紀の実験的作品「キャラクターズ、東浩紀桜坂洋」を評論する、非常にメタ批評な作品が今回の群像新人文学賞批評部門で同世代の武田将明「囲われない批評」が入賞したが、この作品はおもしろいことに、東が自ら小説を書いて、その真髄を純文学に仕上げた小説「キャラクターズ」を大いに援護している。この時点ではまだ「ファントム、クォンタム」が世に出ていなかったのであろう、その一つ前の「キャラクターズ」を評しているものだから、実践面での批評の「作品化」は、中原昌也のものが取り上げられている。だから、東の作品でいくなら、新しい「ファントム・・・」がその実例として批評の対象になったはずである。

 「キャラクターズ」はいわば、武田の「囲われない批評」の小説版といったところであろうか?「結果」が「これ」というよりは、小説風に東は「批評」を試みたということであって、「結果」がこのような小説であるとはちょっと言いにくいのである。「結果」は今度の小説「ファントム・・・」に大いに期待しなければならない。そしてそれは中原昌也の小説とどう異なるのかであろう。「ファントム・・・」はまだ序章しか発表されていないので、さてどうなるか期待できるところである。

 おもしろいのは、同じ批評家でありながら、東の場合は、小説的形式を用いて今の純文学状況を批評しようとしているのに対して、武田は、ストレートに、真正面から「批評」で表現しているところであろう。日本の近代文学の変遷が、現在のような私小説的純文学になってしまったという批評対象状況は同じなのである。評論的に変遷を論ずるか、小説的にそれを表現するかの違いだけである。だから結果としての「小説」はあっても、結果としての「評論」はまた少し異なる部分がある。

ペンネーム安西果歩さん救急車で運ばれ集中治療室に!

 心臓にペースメーカーを入れ、一日強行スケジュールで毎日を休みなく駈けずり回っていた同人誌「サルベージュ」の実質的な編集者でもある彼女が6月5日倒れ救急車で病院に運ばれ集中治療室に入ったままいまだめんかいできないままでいる。まことに心配である。

 地域にとって神社というのはリーダー世話役的存在で神職者にとって地域住民の問題が容易に飛び込みやすい場所である。問題解決ばかりではない。地域の行事やコミニティへの参加、最近の高齢者の増加で彼らの世話まで引き受ける毎日で、いったい何時小説を書いているのだろうと思えるくらいである。最近では過去の同人の小説をインターネットでも発表しようとネットにホームページを開いたばかりで、慣れない作成に時間を割く余裕もなかったほどである。心臓にペースメーカを入れたのは確か一昨年同じ心臓病で入院したときだった。

 今年に入って、アルツハイマーだった母を亡くし、夫は長い闘病生活を続けていてその看病もしていた。一ヶ月に一、二回の「サルベージュ」の集いにも彼女がそのスケジュールを組んでいるくらいである。今年は12号を出すことになっていて年々投稿者が加齢でその動きも容易でないのになんとか続けようとがんばっていた矢先である。

 今年の初めの集いに、彼女は独り言のように、「みんな、どうせこの年、来るものは死だけよ、このあたりで死の美学、マイナスに考えるのではなく積極的に死を美化する手法もせいかつに取り入れようではないか!」などと発言しみなを驚かせていたが、これでは死の美学どころではない。

 とりあえずは報告である。同人誌の皆さんは、彼女以外ネットを覗かないない人ばかりだが、かって関連があった人々、県外に移動した人々が少しでもこの報告を見てくれるように願うばかりです。                                                                                   

こちらの小説のほうが目的に適っている。

 「ファントム、クォントム、序章」を読んでいると、またしても「新潮」10月号で別の東の小説を発見した。いかに私から「新潮」が遠く離れていたかということだ。おそらくこの奇妙なタイトルの実名小説が、「ファントム・・・」の動機になっている小説なのだろう。こちらのほうが長いが、言いたいことがよく解る・しかも小説にして、批評的に解らせようとする意図がうかがえる。しかし、批評小説というべきこの小説、昨今の純文学を私小説と定義して(確かにそういう傾向はある)それへの皮肉を試みようとして、この小説自体が私小説のようになった、より純文学へ擦り寄ったと彼は思ったのであろう、それで広大さと叙事史的な試みをしようとしたのであろうか。「ファントム・・・」の先が見えるような小説である。やはり東は浅田彰が試みればよい仕事をしようとしている。ほかにどの小説家も試みないのだから当然であろう。なんだか当事者然としているではないか。

 しかしながら、老人である私にとってはこれを追っかけるのにはもう時間がない。この年までに凡その純文学なるものは良かれあしかれもう決定済みである。だから、その若さから溢れる飛躍にわたしはもうついていけない。そういう意味での読者としての不満はある。 カテゴリーとして「文学関連、文芸時評東浩紀」を作ってもよいかも。

 ちょっと話は逸れるが、今回の「秋葉原無差別殺人」のコメントに東浩紀が登場していたが、なんだかねえ!社会学者みたいな、心理学者みたいなこと言ってたけどNHKの人選ミスだよこれは。ジャックデリダ風(彼の思想的基盤である「デリダ」も小説は書かなかったが)何でも屋を真似ているんだろうけどね。それよりおもしろいのは、彼の初TV出演の時の感想である。一作品を作るのに多くのスッタッフが関わり、その数の多さに驚いていた。このパワーを、一人する文学と比較して感慨深そうなのが興味津々であった。「製作すること」は小説も同じだが、そこから外れようとする言説で、思想界に一線を置き常に差異化を図ってきた東だが、その行為に似るのではないか?上には上があったかということだろうか。彼は将来映画制作にでもいくのではなかろうか?それの方が手っ取り早いかも。

*タイトルの意味は序章だけではまだ掴めない。

 小説内容がつかみやすいように、序章の構造を記しておく。語り手らしき一人称形式で二人の人物、「ぼく」と「わたし」が語る。全体は5節にわかれていてそんなに長くはない。「ぼく」は一節にのみ、あとの節は全部「わたし(女性)」で、読み進めるうちに「わたし」の輪郭が掴めるようになっている。おそらく「ぼく」は「わたし」の夫でなのであろう。そんなな気配である。

 この小説は「時間」あるいは「時制」がつかみ難い。語られている「今」を、小説を読みなれている読者はてがかりにするが、その「今」が過去と現在と未来を錯綜する。しかも、どうやら全体の時間、今は2035年らしいのだが、ここに作者の近未来感覚がうかがえるのだが、SF風にもうひとつ、コンピュータの「時間」が「今」と平行して、その背後に存在するからややこしい。作者はこれを「年代固定」と称して、「今」が2035年で、コンピュータ時間の「今」が30年過去の2005年となっている。各説の語りは、過去の出来事を語っているのだが、その過去の出来事に関連して、コンピュータデータ(インターネットのブログやメールの語り)が引用されるとき、その今は2005年、つまりおよそ、実際の「今」が重なるのである。

 この序章は、よく考えてみれば、わたし「ガリバー的欲張り」と言ったが、実は範囲は非常に狭く、単にインターネットに接続する「コンピュータ」の世界だけの「広がり」でしかなく、現実感覚の広さは、地理的にせいぜいアメリカと日本だけの範囲にとどまる。しかも小説的個人事情はもっと狭く、単に「ぼく」と「わたし」の世界だけのようで、やはりこういう形(叙事詩的広大な形式をめざす)であっても今流行の「オタク」的狭さが伺えるのは、ほかの女性作家の小説とそれほど変わらない。彼専門の「思想的」流れには、やはり敏感なようで随所に、思想的先端?の断定的言説が顔を覗かせる。そして、「思想は繰り返す」とでもいうのだろうか、征服されて隅におしやられてしまった神秘思想がまたぞろ復活する状況が、「今」の裏側?で平行して、30年ずれたコンピュータ「世界」に蔓延しているようなので、これは現実的「今」が批判されているのだろうか?このコンピュータ世界を作者は、インターネットの第二世代と称し、「量子回路」の発展で、今のネットの人間関与を廃し、コンピュータが独自に支配する世界がネットに繋がれたコンピュータに向かうときに限って「平行世界」の向こう側が現れてくるような、小説進行をほどこしている。この序章は、人間がそうしてコンピュータに向かって動かされていくうちに、その世界が、2035年の世界に表面化してくるよう構造化させている。なかなか手がこんでいるのだが、現実的には単純である。われわれが「世界」をメディアやネットで把握し、あれこれ想像を、日常感覚の狭い範囲でめぐらせているのと少しも変わらない。「ガリバー」なのはそういう意味である。

ゲイの中国人スパイのなれの果てのほうはどうなった?映画「M・バタフライ」

 今月のUSENネット配信の映画「M・バタフライ」を久しぶりに鑑賞しました。1993年のクローネンバーグの作品です。この映画のラストシーンを今回わたしは、三島のあの自衛隊官舎での自殺とダブらせて観てしまいました。この映画のラスト、ジェレミー・アイアンズ演ずるルネの最後の首を切って自殺するシーンとです。自殺する当人たちの思いとは違い、我々第三者としての観客側、すなわち「他者」の思いと、当人の思いとは相反するのが不思議なほど異なるのは、この二つの事件にも当てはまります。この映画も実話に基づいたものです。クロ−ネンバーグ監督は、すっきりと幻想的に、パソコンで観るとほとんど真っ暗で(何も見えないほど)ですが、実に淡々とカットをこなしています。

 映画にしろ、小説にしろ作者の手にかかって作品となった以上、そこにはなんらかの解釈が必ず施されるのが普通です。実話にはそういう解釈はありません。三島の事件もそうです。我々第三者にはこれも単なる実話です。それに解釈をつけたのが、映画「みしま」です。「M・バタフライ」のルネも、実在の人物です。二人とも幻想的な夢が破れ、真実が明るみに晒されます。しかし、その幻想にしがみつき、死でその幻想の維持を図ったとの解釈は二作品に共通のものです。わたしは、なにも伝えない実話での二人は、ホントウはなぜ死を選択したのだろうか、その真実はなんだろうか不思議な気持ちで考えます。共通項は「ゲイ」感覚の隠蔽ではないかと思えるのです。そういう意味では、ルイの方は単純明瞭です。なにしろ、愛した東洋の女は男だったのですから。「みしま」の場合は彼がそうであったように幾重もの鎧で覆われたゲイ感覚を煙にまくのですが、あの死に方は顔を隠して尻隠さずの観が明白です。「みしま」は置いておくことにして、「M・バタフライ」の映像処理は、ほんとにどんでん返しです。「ラスト・エンペラー」のジョン・ローンが最後に精悍な男になって、女の時と同じセリフでルネに迫るところがです。ここにすべての真実は現れています。ジョンローン扮する女は「なぜ京劇の女役は男が演じるのだろうか」と質問を発し自ら答えます。「男が女を創るのだからです」と。そしてこうもいいます。「ここでは(中国)みんな平等に無知よ!」と。