[文学関連、芥川賞」 ●初登場、沖縄の作家大城立裕の「カクテル・パーティ」

 「沖縄諸島」という地球上の場所は不思議なところである。現在、たまたま日本語が通用するものだからそれほど奇異には感じないけれども、日本列島の東京以外の地方ということになっているけれども、歴史や民俗学に少しでも触れるとわかるように日本の一地方の差異とは大きな隔たりがあるように思わせられる場所である。それにしても、アジア大陸(とりわけ中国)に沿って日本の北から沖縄諸島の南へ列島がまるで別天地のごとく海の向こうにあるものだから、三々五々独立心旺盛な集団が、この列島になだれ込むのは当然の事といえる。集団の到着が北が先か南が先かなんてことはなく、時間的にはバラバラだったのではなかろうか?定着度の強固さが早く固まった場所から南進したり北進してぶつかりあうことがあって、その歴史が語られるときその独自性の強弱でまるで国境ほどの違いがあるのだとみなあれこれ言い合うだけなのではないか。文芸誌「すばる」二月号もこの沖縄文学特集である。多くの沖縄人文化人や文学者が「沖縄」のアイデンティティなるものを本誌に投稿して、その独自性と自己同一的発見を試みてはいるが、その表現の土台となる言語が日本語類似で共通しているからには、せいぜい、内地の一地方との差異なるものに検収してしまうのはいたしかたないことである。

 さて、なぜこんなことを書くのかといえば今回の第五十七回の芥川賞受賞作品が沖縄に住み沖縄で活躍した作家、大城立裕の「カクテル・パーティー」だからである。昭和42年上半期の出来事である。この作品を選んだ芥川賞選考委員たちが、この「沖縄」かなり意識しているからである。これまでにだって、一次選考には沖縄の作家の作品はいくらでも候補に上っていたはずなのである。もちろん、この賞に関しては、一定の日本語の文学レベルにあることが必須の条件ではあったのだが。それにしても、選考委員たちは、この「沖縄」発の小説を特別視していることは、その選評からみて判るのである。なにしろ、昭和42年の時点では沖縄はまだ日本ではなかったからである。アメリカの占領地で、事は一筋縄ではいかない、政治的理由があったからでもある。沖縄人にとって、自分達の場所は「主権」が実にあいまいな状況が発生しているからである。

大城立裕の「カクテル・パーティー」は、そんなややこしい複雑さが、文体的にも内容的にも、そのまま小説に現れている得意な作品なのである。文体的には、実に意識的に良く練られた、一人称形式が前半で、後半が小説的には難しいと言われる二人称形式になっているのである。しかも、小説形式として定番の「語り口」が危険なほどに脚本的、シナリオ的な様相でギリギリのところで小説形式を保持しているといった作品であり、とてもユニークである。

 石川達三は、後半の二人称形式を失敗だと評価しているが、それは石川が「沖縄」の当時の複雑さを理解していないからである。当時の沖縄人にとって、日本でもない、アメリカでもない、かといって、沖縄独自のものでもないという、彼らの中途半端なアイデンティティが、この歴史の境目に微妙に揺らいでいるのを見ようとしないからである。なぜ、二人称形式が必要だったか?作者は、二人称形式で、もう一人の「私」を別の「声」、別の「視点」として分けようとしており、その分割は、ちょうど、このときの沖縄人のアイデンティティを模索する必要があったからなのである。物語内容は、前半の「私」が占領軍のアメリカ人たちと、問題なく生活でき、わきあいあいの交流をしている、したい、という市民的には平等な位置を示そうと、アメリカ兵の住むキャンプ内で催されるパーティに、かっては未知の外国である基地内の場所なのに、今では友人として招待されるほどの関係ができたのだという和やかで友好的な関係を顕示しようとするのである。「私」には、かって沖縄がまだ日本だったとき、当然太平洋戦争に日本人として従軍した経験がある。その関係で、亡命中国人の友達もいるし、内地の戦友もいる。この三人は終戦後、沖縄で友人として関係しているが、それぞれの「過去」はかって敵、味方という具合に反目しあった現実がある。この二人も、基地内のアメリカ人家族のカクテル・パーティに友達として参加する。それぞれの過去、それぞれのアイデンティティを本音で語り合ったら、全く今の友情はバラバラに壊れてしまいそうなほどである。すべては、過去を語らないことで、かろうじて現状を保っているといえる。パーティーでは、ちらほら過去が語られるが、それは今を認め合うことで問題化させないのである。カクテル・パーティの夜はこうして無事に終了するのが前半部分である。シナリオライターらしく作者は、この前半を舞台劇のように描いていて新鮮である。パーティが終わって、帰宅するととんでもない事件が待ち構えている。「私」は実は、自宅の離れを、アメリカ兵に貸していて、そのアメリカ兵は、沖縄人の女を囲って同棲しているのだが、パーティから帰宅したその日、「私」の十代の娘がそのアメリカ兵に強姦されていたのである。これが後半部分で、ここから突然に二人称形式の文体になる。もう一人の「私」との問答のような語り口になるのだが、この語り口が一気に、不思議な空気を醸し始めるのである。

 強姦された娘はかなり抵抗してそのアメリカ兵を崖から突き落としかなりの怪我を負わせていて軍の病院に収容され、強姦した娘を逆に告訴しているのである。父親の「私」は被害者としてこれを警察ざたにしようとするが、さてここからが占領地のややこしいところで、軍の管轄と、沖縄警察という、別々に二重の告訴をしなければならない。どちらも被害者とあっては、「私」の方は強姦罪で、この種の犯罪は基地沖縄ではこれまでほとんど泣き寝入り状態で片付けられていたし、強姦者が証人となるようでは基地内アメリカ側に逃げ込んだまま出てきてはくれない。逆にこちら側は怪我を負わせているということで、その立証のほうが先になるということで、沖縄の警察は権限が全くないという被占領地の悲しさである。友人である亡命中国人は、沖縄のこの地で弁護士をしている。「私」は彼に弁護してもらおうと頼み込むが、もう一人の「私」がかっての日本軍兵士として、同じような経験を、いやこの事件よりももっとひどい形の同質の過去を持っていることを打ち明けられる。日本人の友人はもっと充てにならない。では、友人の「カクテル・パーティ」に招待してくれたアメリカ人に頼むのはどうだろう。これがまた曲者で、沖縄民間人との友好は、CIA的憲兵としての存在だったということがわかり、逆に泣き寝入りが得策だと薦められる。娘に告訴の話をすると、逆にそんな恥曝しはいやだと抵抗するという有様で、「私」はもう一人の「私」との徹底的な考察によって、孤独に判断と行動を決定せざるを得なくなるのである。ここが、沖縄の置かれた沖縄人の立場の微妙なところである。協力者、味方は誰もいないのである。あくまで「私」一人で戦う以外に方法はなく、このジレンマが、二人称形式によく則っていて効果的である。沖縄が日本に返還された現在でも、この二人称的表出の奇妙な「孤独」は、沖縄人の無意識となっているのではあるまいか?この時点で、将来の「今」を実によく見据えている作品だと評価できるのである。芥川賞にとって、沖縄小説が初めてなら、このシナリオ的二人称的文体の小説も初めてである。選考委員の中には、ときおり、聞こえてくる、こういった沖縄発の小説を知悉している御仁もいたようである。それだけに、足並みの揃わない、芥川賞選考委員たちの中央文壇意識が、いかにも殿様であるかのように鼻につくのである。「小説」選考としては当然であると断って、この小説の「内容」が問題を含み、それがよく噛み砕かれて作品化しているための選択であるというような中央意識は、丁度、この作品の中に登場する「日本人」にソックリであるのが意味深長である。

 ちなみに、この作品「カクテル・パーティ」はアメリカ人の監督(名前は失念)によって今年映画化が決定している。また、この作品を皮切りに沖縄作家の作品が多く登場するようになっていく。「沖縄の少年」を書いた作家(失念)は、芥川賞を受賞したにもかかわらずホームレス同然の生活をしていると聞く、これは賞に対する作者の甘えなのだろうか。いずれにしても、このノベルズの表紙に季節の短文を書いている、沖縄の「チズル」さん、この作品やあの作品(笑)そして「すばる」の「沖縄特集」を読んで、ぜひ感想を聞きたいものである。